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Comments No.4 津田英二研究室

「実践的研究」概念についてのノート(2012年12月)

意気込んで「コメントコーナー」を作ったものの、1年間放置状態でした。いろいろな迷いが筆を鈍らせていました。今回はその迷いを書いてみようと思います。

「参加型研究」から考える

2005年度からヒューマン・コミュニティ創成研究センターの仕事を始めて以降、人間の発達について「実践的研究を遂行すること」が私の責務のひとつになってきました。元々私は、実践と研究との関係に深い関心があり、大学院の頃には「参加型研究」(当時は「参与研究」と名づけていました)についての論文を書いたこともありました。この論文は、社会教育のフィールドにおいて研究とは何か、研究者になるとはどういうことかということについて、研究者になるかもしれない私が少しでも腑に落ちた理解をしようとした、いわば足跡です。

当時私は、特に人々ののっぴきならない生活課題を対象にした研究によって生きていく研究者なんて、甘ったれた特権階級だと考えていました。今は、ちゃんと生きている研究者は、研究と接続していたりいなかったりする複雑な社会関係の中で、研究者自身が抱えるのっぴきならない生活課題とも格闘しながら、研究対象に向き合っているということが分かったので、大学院生の頃のようには尖っていません。でも、当時の問題意識は今までずっと引きずっていることも確かです。

「参加型研究」というのは、生活者自身が参加して行う研究のことです。特に発展途上国の開発において、外部からやってきた研究者によって遂行される研究に対抗して、住民自身が研究の参加者として遂行される研究が注目を集めてきました。その背景にはいろいろなことがありますが、一つには外部からやってくる研究者による研究は、欧米近代の価値観を前提にして現象を捉えるので、住民の価値観と乖離してしまうという反省がありました。さらにその背景には、欧米近代が前提にした客観性や普遍性が、必ずしもすべての人に当てはまるわけではないという脱近代の潮流がありました。研究者が客観性・普遍性の高い研究を行っても、それが住民にとっての真理にはならないかもしれないという発見が、「開発」という文脈でなされてきたのだと言えます。

私も「参加型研究」に惹かれ、自分も研究者になるならそうした理念や方法を参考にしたいと考えたものでした。しかし、「参加型研究」にも大きな問題があります。ひとつには、研究は現象を言語によってカテゴライズし、知を生み出していく営みです。その営み自体が西欧近代の価値観に基づいているかもしれないということです。誰が言葉を与えるかということを問題にした後は、現象に言葉を与えるという営み自体に焦点を当てなければならないように思いました。同時に、「参加型研究」は住民だけで行うのではなく、研究者と住民とが協働して行うものというイメージがあります。研究者は住民の研究への参加をファシリテートするのですが、研究者も研究活動にコミットしている以上、研究者の主体性もまた看過することはできません。研究者もまた「私はこう考える」という主観を研究過程に持ち込みます。その主観は、住民の「私はこう考える」という主観とどのような関係があるのでしょうか。「参加型研究」を遂行するということは、結局、研究者と住民との関係性が問われるということなのです。

「実践的研究」という大括りにした概念を使っても同様だと考えています。「実践的研究」とは実践と研究との間にある溝を埋め、共有部分を増やしていくということだと思います。もちろんこうした発想をするからには、実践と研究との間にある溝の本質的・歴史的理解が必要だと思います。簡単に研究者が乗り越えていけるように考えるとしたら、大きな過ちを犯すような気がしますし、その溝を自覚せずに研究は無前提に実践に役立つものだと考えているとしたら、「実践的研究」を名乗ってはいけないように思います。

ローカルな知の復権

もう少し複雑に考えてみたいと思います。ここで考えるのは、人々の日常生活の中で行われている実践に関わる「実践的研究」です。

まず便宜上、「研究者」「研究」「実践」「探求」「生活者」という概念を使おうと思います。「研究者」は「研究」を生業としている人のことです。「研究」は「研究者」の関心や問題意識にしたがって、現象を言語によってカテゴライズし、現象の中にある法則性や一般性を見つけようとする行為です。それに対して「生活者」は、日々の生活の中で「探求」を行っています。この「探求」と「実践」は深く結びついています。「実践」とは、自らの思想や倫理に基づく世界への働きかけだと理解すれば、「生活者」は「探求」に基づいて「実践」する主体だということになります。

このように考えると、「研究」と「実践」との間にある溝というのは、「研究」と「探求」との間にある溝だということもできます。「研究」はいわばグローバルな知を生産しようとし、「探求」はいわばローカルな知を生産しようとするということができるかもしれません。近代化の中で、ローカルな知は、グローバルな知によって見下され、無価値化されてきました。「実践的研究」は、ローカルな知の復権と深く関係しているのです。

しかし、ローカルな知の復権は、グローバルな知の否定を意味しません。ローカルな知とグローバルな知の適切な関係を模索しなければならないというのが、「実践的研究」の課題になります。ローカルな知が元気であれば、「研究」はグローバルな知を生産しているだけでよいのではないかと思います。主体的な「生活者」は、グローバルな知を適切に「探求」の中に取り込み、「実践」の研ぎ澄ましに役立てていくからです。しかし、ローカルな知の中には、元気を奪われてしまっている部分もあります。発展途上国の住民が「参加型研究」によって主体的に開発に参加していくようになるという構図は、発展途上国におけるローカルな知が元気を奪われてしまっていたことを背景にしています。したがって、「実践的研究」は本質的に、こうした元気を奪われたローカルな知をエンパワーしていくために行うものだと考えてよいのではないかと思います。

ローカルな知が力を奪われているというのは、「生活者」がディスパワーされ、「探求」を阻害されているということを意味します。すなわち、「実践的研究」がローカルな知のエンパワーメントであると考えるのであれば、同時に「生活者」のエンパワーメントを伴うのであり、「探求」に寄り添うことであるということもできるのではないかと考えるのです。

「実践的研究」の要件

このように考えると、否このように考えるからこそ、さらにいろいろな問題が生まれてきます。最大の問題は、「ローカルな知が力を奪われている」と判断するのは誰かということです。最終的に研究者がそのように判断するとしか言いようがないのですが、その際なぜそう判断するかという根拠を現象から言語化を通して語らなければなりません。すでにその時点で研究という営みが挿し挟まるわけです。しかも、グローバルな知が主導して「ローカルな知が力を奪われている」と判断することが多いように思います。そうすると、「実践的研究」は「生活者」「探求」「実践」との関係で居心地の悪さを経験することになるわけです。

さらに、先ほど述べた「研究者」の主体性の問題が浮上してきます。「私はこう思う」ということをいきなり「生活者」に語りかけたら、「生活者」から無視されるだけに終わるか、「生活者」を抑圧するかのどちらかになるでしょう。しかしだからといって、「実践」と関わる時点ですでに「研究者」の主観は消し去ったり、ないことにしたりすることは困難です。なぜこの「実践」に関わろうとしたのか、という時点から既に「研究者」の主観が関わっているからです。

そう考えると、「実践的研究」において「研究者」は、「生活者」「探求」「実践」とどのような関係を築いていくかということに大きなエネルギーを割かなければならないし、また「生活者」「探求」「実践」との関係の中で、「研究者」自身の主観を対象化し省察し研ぎ澄まさなければなりません。これまでも例えば社会調査などの文脈で研究対象者との「ラポール」が問題にされてきました。しかし、「実践的研究」における「生活者」「探求」「実践」との関係構築は、従来の「ラポール」とは意味が大きく異なります。後者は研究対象者からより正確で大量の情報を得るための手段として「ラポール」を大切にするという文脈であるのに対して、「実践的研究」においては関係構築なくしては存在意義そのものが失われるからです。

再度……

さて、「実践的研究」が「実践」との関係、及び「研究者」自身の足場に対する不断の省察を重要な要素としていると私は考えるのですが、では再度「実践的研究」とは何かということを問うてみます。ローカルな知をエンパワーして、「生活者」がグローバルな知を使いこなすことができるよう支援することを通して、「生活者」と「研究者」が協働して行う「研究」=「省察」ということになるでしょうか。問題はこれが具体的にどういうことなのか、ということです。例えば次のような問いが「実践的研究」を標榜している私を苦しめています。

最大の問いは、「実践的研究」の「研究者」が「研究者」である必然性、必要性はあるのかということです。ローカルな知をエンパワーして「生活者」が主体的に「省察」し「実践」することができるようにするための支援は、そのようなことを「実践」として志す「実践者」がやればよいことです。「研究者」が出てきてわざわざ「研究」=「省察」というプロセスを大切にしようとするのはなぜなのか、その際「研究」とは何を指すのかということが問いになるのです。

私はこの問いに答えを出せていません。いちおう次のように問いを処理してしのいでいますが、その処理は問いへの答えだとは思っていません。どのように処理しているかというと、「研究」を次の2つの次元に分けているのです。

第一の次元は、「生活者」と協働して行う「研究」=「省察」です。この次元では、私自身が「生活者」となり「省察」と「実践」を行います。「研究者」であるということは単なる私の立場を意味しているにすぎないと考えます。立場の異なる人たちが、認識や理念を共有していき、より高次の「実践」を協働でつくりあげていくという営みを「実践的研究」と考えるのです。

第二の次元は、第一の次元における「実践的研究」の経験を基盤にしてグローバルな知と向き合う「研究」です。こちらのほうは、従来からイメージされる「研究」に近くなります。そうした「研究」の世界に片足を置くことで、第一の次元の「実践的研究」においても「研究者」としての私に独自性が生まれるかもしれないと考えます。

しかし、このような理解では、なんだか元に戻っただけというような感じもします。第一の次元は「実践」であり、第二の次元が「研究」だと割り切って考えてもいいわけであり、「研究者」の本業は第二の次元の「研究」だと言われてしまうでしょう。結局「実践」と「研究」の間に横たわる溝についてさえ、「研究者」個人の行動性向や心構えに問題を還元しているだけではないかという気もします。何か方法論化していかなければならないのではないか、という気がします。

なかなか難しい問題だし、私自身のレゾンデートルとも関わるので、近代のプロジェクトの中で構築された分業のままに、「研究者」は普遍性・客観性・妥当性を信じてグローバルな知を生産するほうが節度ある研究と言えるのではないかという迷いが去来するのを禁じえません。せめて問いを捨て去ることなく、与えられた状況に真摯に向き合うことしかないのだろうと、今は考えているところです。