これまでの理念と課題
あーちでの実践的研究の5年余りを振り返ると、私たちが大切にしてきた価値が次第に煮詰まり、定着してきたように感じられる。中でも、多くの多様な人が集まり一緒に楽しむ時間をすごすことによって、お互いの価値を認め合うようになることを大切にするという価値である。特に学生レベルのおとなが、障がい児をかわいく思うようになるという過程が重視されてきた。この価値に肉をつけていくことが、あーち、中でもあーち居場所づくりの理念の明確化につながるのではないかと思う。
子どもはかわいがられて育つ。かわいがられることによって、自分が愛される存在であること、この世界に生きていてもいい存在であることを実感する。その感覚が自尊心の足場になり、また他者を尊重し自分らしさを発揮するための種になる。まずは、こうした見通しが、実践の中での前提になってきていた。
あーち居場所づくりに来る子どもたちの多くは、最初は小学生の低学年だったが、今では中学生や高校生になった。子どもたちの状況も変わってきた。実践の前提は拡張される必要が出てきた。
人間の発達という捉え方
さて、子どもたちの成長にあわせて理念を変更するとなると、その理念は人間の発達過程という枠組みを参照することになるのだろうか。
私自身は、人間の発達を捉えようとする理論の多くは、「人間は同じ発達過程を辿るはずだ」という前提があることに対して、学生時代から違和感を感じてきた。「子どもの発達は無限の可能性に開かれている」と言いながら、発達をひとつの型にはめこんでしまう効果をもつのではないか、と感じていたからである。しかし他方、類としての人間が社会や文化を継承していく中で捉えられる発達の理論には、親近感をもってきた。代表格がエリック・エリクソンという人の心理・社会的発達という図式である。
エリクソンは、人生のそれぞれの時期における「心理・社会的危機」と「基本的な強さ」を次のように描く。乳児期:「基本的信頼」対「基本的不信」→「希望」、幼児期前期:「自律性」対「恥、疑惑」→「意志」、遊戯期:「自主性」対「罪悪感」→「目的」、学童期:「勤勉性」対「劣等感」→「適格」、青年期:「同一性」対「同一性の混乱」→「忠誠」、前成人期「親密」対「孤立」→「愛」、成人期:「生殖性」対「停滞性」→「世話」、老年期:「統合」対「絶望」→「英知」。とてもとても単純化して描くなら、人は生まれてきた世界に温かく迎え入れられることによって希望を抱き、自ら世界に対して働きかけるようになり、いずれは世界の中に確固とした役割をもつようになるとともに、他者を愛し、次の世代を生みだし、彼らに希望を託すというような人生の描き方である。
類としての人間の発達とその前提
エリクソンは高齢になる割と最近まで著作活動を書き続けた人で、そういう面でもすごい人なのだが、何しろ幼児期や青年期の研究を主にやっていたのは大昔のことで、状況はその後大きく変化した。例えば『幼児期と社会』という大著は、「アメリカン・インディアン」を研究対象とし、1950年に出版された。エリクソンが前提にした社会に比べて、今の私たちの社会は、世代間の相互性がたいへん希薄である。乳児から高齢者までそろっている中で、自らの「今なすべきこと」が決まってくるような社会ではない。関係は疎外され、世代ごと、よくて親世代と子世代との関係の中に閉じ込められ、その中で「今なすべきこと」が決められているような社会である。
つまり、私たちの社会では、人は生まれてきた世界に温かく迎え入れられることによって希望を抱き、自ら世界に対して働きかけるようになり、いずれは世界の中に確固とした役割をもつようになるとともに、他者を愛し、次の世代を生みだし、彼らに希望を託すというような人生の見通しは、自明に保障されているわけではない。つまり、ライフサイクルの見通しは実践によってつくりだされる必要のある過程になってしまっているのではないだろうか。「子育て支援」などということを政府が主導しなければならないという状況は、その何よりの証左であるように思う。
このように考えると、あーち居場所づくりは、人間の発達以前の問題、すなわち人間が類としてのライフサイクルを見通せる条件について考えてきたと言えるのではないだろうか。その方向に実践的研究をもっと深められるかもしれないと思う。
理念の更新に向けての試案
だとすれば、あーち居場所づくりが理念とすべきことがらは、次のような方向に見定めることができるのではないだろうか。すなわち、あーち居場所づくりとは、障がいや国籍などといった個々の特性や属性にかかわらず、人は生まれてきた世界に温かく迎え入れられることによって希望を抱き、自ら世界に対して働きかけるようになり、いずれは世界の中に確固とした役割をもつようになるとともに、他者を愛し、次の世代を生みだし、彼らに希望を託すというような人生の見通しをもつ条件となる関係をつくる場である。というような方向である。
もう少し図式的に捉えてみよう。
追求される価値 | 想定される課題例(割と適当な列挙) |
幼児期〜学童期 周囲のおとなに大切にされ、愛されているという感覚をもつ。 徐々に、親からだけではなく、多くの他者から受け入れられていることに喜びを感じるようになっていく。 |
・親をはじめとするおとなの、障がいに対する意識。 ・親をはじめとするおとなの自尊心の低さ。 ・学校などでの様子や、学校と親との関係など。 ・家族関係、社会関係。 ・支援サービスの利用。 |
青年期 自分に自信を持ち、自分と他者を大切にする。 自分らしさを持ち、固有の存在として、一人の社会成員となっていく。 |
・親や社会からの自立への期待が大きくなる。(現状と期待とのギャップ) ・親離れ、子離れの困難。 ・学校での様子。 ・自尊感情の不足。 ・他者への不信感 |
成人期 自分らしさを発揮して、固有の存在として、他者を大切に思うことを土台とした社会的役割をもつようになる。 |
・社会的役割の欠如。 ・自分らしさの抑圧。 ・自尊感情の不足。 ・他者への不信感。 |
追求される価値については、個々の特性や属性にかかわらないが、想定される課題は、個々の社会的背景によって大きく異なるだろう。また、この表の下に「高齢期」あるいは「老年期」を付け加えなければならないかもしれない。あるいは「成人期」からそれをあえて分離させる必要がないと考えられるかもしれない。
なお、エリクソンも言っていることであるが、幼児期にめざすべき価値が、成人期には必要なくなるというようなことではない。「愛されているという感覚」は、おとなにとっても大きな課題であることがありえる。単純な暦年齢による課題の定式化ではなく、関係の中で課題が発見され、自覚され、実践されていくという過程にこそ意味があるのではないかと思う。
関係の物語
こうした価値や課題は、数値によって表すようなものではない。個人の到達度を測って比較しても意味があるようなものではない。表層的な成果を分析的に捉えることでは、浅薄な個としての人間像しか描けない。求めている価値や課題は、総体的、重層的で質的なものである。また、前の世代と次の世代との相互性、世代内の相互性、多様な属性や背景をもつ人々の間の相互性など、関係の中で実現され追究される価値や課題である。
私たちは、個人の能力に主眼を置いた変化よりも、文化と個人との相互作用に「人間の発達」の本質を見ようとする。特定の文化の元で、人々は社会の一員となり、また人々の相互作用の中で文化が変容する。そうした過程の円滑な進行によって、インクルーシヴな社会に向かうことができると考える。こうした発想は、鯨岡峻の関係発達論を大いに参考にすることができるが、私たちは心理学的な視点よりも、教育学的な着想をもち、個と個との相互作用だけでなく、個と文化との相互作用、相互作用に影響を与える環境や働きかけに重点を置く。「関係の物語としての発達」という語で説明していこうと思うが、詳細は現在執筆中の本で述べようと思う。