戻る

津田英二「生涯学習社会における『学習』概念拡張の背景と意味」
(『社会教育学・図書館学研究』第18号、1994年3月、pp.55-64)

T 社会教育・生涯学習論における「学習」概念の拡張

 「学習」概念に、非意図的な「学習」を含めるか含めないか、これが第一の論点である。心理学的な視点から言えば、個体が何らかの新しい適応の仕方を習得したならば、それを「学習」と呼んでも差し支えない。この場合、「学習」は人間に固有の行為ではない。オウムは人間の言葉を「学習」するし、猿は道具の使い方を「学習」する。けれども教育学の場合、「学習」をこのような広い意味で使われることには疑問が持たれることが多い。
 三井為友は次のように「学習」概念を構想している。
“実践を予想しない学習はない。もし初めから何等の実践をも考慮に入れない学習があるとするならば、それは正しいいみでの学習ではないであろう。学習というものは、本来実践にあらわれて、何等かの実践方式上の変化を予想している。”1)
 また室俊司は、“学習の意味は一般に、「新しい知識の獲得および、そのことによる態度(認識)の変化」と、考えてよいだろう”と述べながらも、社会教育における「学習」概念としては、「グループ学習」「「話しあい学習」「共同学習」「生活学習」「生産学習」「政治学習」「社会科学学習」「憲法学習」など、“いずれも実践上の「学習」概念”であった、としている2)。
 三井にしても室にしても、「学習」を実践概念として捉えているわけである。実践とは単なる一般的な意味での行為ではなく、存在と当為を統一した能動的営為である。したがって、実践概念としての「学習」とは、既存の状況と経験を基盤にして、未来を意志することから生じる行為であると言うことができる。
 教育学における「学習」概念でも、心理学的な概念に近いものもある。例えば勝田守一は、「発達」と「学習」と「教育」との関係を追究し、次のように述べている3)。
“学習は、無意識、無選択なものから、次第に興味の発達にともなって意識的・選択的なものに進んでいく。”(p.110)
“人間のばあいには、幼児は、社会的な学習ともいうべきものを開始する。”(p.118)
“主体が環境との相互作用の中で、もって生まれた刺激と反応の傾向を土台としながら、適応の努力をくりかえす過程で、習性を変容し、新しい能力を形成するのが学習といわれるものなのである。”(p.149)
“教育が発達に干渉し得るのは、学習を媒介にしてなのである。”(p.149)
すなわち勝田による「学習」は、学習者の意志が介在する必要はない。人間の「学習」が動物の「学習」と異なるのは、前者が言語を媒介にした社会的な「学習」であるという点に尽きる。人間は「発達」に伴って、「学習」のための内部要因を成熟させていくのであり、「教育」とはこのように定義された「学習」を指導するものである、と考えられている。
 教育学一般の場合、「学習」の主体は幼児までを含まなければならず、「学習」を実践概念としてのみ捉えるわけにはいかない。さらに、「学習」の主体が意志をもち得ることを仮定しても、「学習」の主体による意志と「教育」の主体による意志との間に乖離があることを考慮すれば、実践の第一義的な主体は「教育」の主体に占領され、「学習」の主体による実践は二次的な意味しかもち得なくなる。もちろん教育学におけるこのような認識の克服への試みは、漸次行なわれつつある4)が、このような困難と勝田が社会教育を「教育」の側面からしか捉えることができなかったこととは無関係ではなかろう5)。
 藤岡貞彦は「成人の学習概念」に限定して定義を試みることで、このような混乱を避けることができた6)。また宮坂廣作も「学習」概念を「社会教育における学習」に限定して定義を試みている7)。いずれも「学習」の主体に焦点があっているのだと言える。
 しかしその一方で、特に近年、社会教育の領域で「学習」概念が確実に拡張してきている。古野有隣は、「意図的学習」に限定すると、“一人一人の学ぼうという意欲がなければ、学ぶこと、すなわち学習は成立しない”と述べ、この限界を克服するために、「遊び」を含めた“生活全体の営みとの関わりにおいて学習を位置づけるという意味での学習の生活性について考慮を払うことが必要”であるとしている8)。
 このような概念の拡張については、研究論文よりも政策文書に見る方が明確である。1981年の中央教育審議会答申『生涯教育について』では、「学習」の語は意図的な「学習」に限定して用いられていた。この答申は次のように述べている。
“今日、変化の激しい社会にあって、人々は、自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。”
ところが、1986年の臨時教育審議会第二次答申では、学習要求にこたえるための行政体制の整備が必要であることを強調するとともに、ボランティア活動の振興を提案し、さらには“華道、茶道などのおけいこごと、囲碁、将棋などの趣味・娯楽、カルチャーセンター、スポーツクラブ等の教育・スポーツ・文化事業については、都市部において民間”の役割に期待している。
 また、1990年の中教審答申『生涯学習の基盤整備について』でも、次のように述べられている。
“生涯学習は、学校や社会の中で意図的、組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われるものである”。
 このように、近年政策文書にみる「学習」概念も、非意図的な「学習」をも内包し、ボランティアや趣味、さらには娯楽までが「学習」として認定され得るようになってきたことが分かる。このように、「学習」概念が一旦拡張をはじめると、人間のあらゆる活動に「学習」の要素が含まれることになり、概念は果てしなく膨張していくように見える。
 さて、「学習」概念が拡張するには、それなりの理由があるはずである。本稿の意図は、その理由を追究することによって、生涯学習推進体制を支えている合理性を探り当てようというところにある。次章ではまず、いくつかの考えられる要因を整理してみる。

U 「学習」概念拡張の背景

A 個人主義的理念の浸透
 古野は、社会教育の領域では、“(成人の)学習活動というものを、即イコール行政その他の機関が設定する学習の場への参加とみなす傾向が強かった”9)と指摘している。彼の言に従えば、施設における「学習」活動に焦点をあてるのではなく、個人の認識活動を主題とするべきである、ということになる。そして、個人の認識活動としての「学習」を基礎とした社会教育論・生涯学習論では、そのような「学習」を援助する社会の諸制度をどのように構築するかということが中心的な課題となる。「学習ニーズの把握」や「学習メニュー方式」といった考え方は、いずれも個人のさまざまな経験や状況を前提にしており、多様な需要に対する供給の最適化がめざされている。このような「学習」の語の使用は、個人主義的な考え方に立脚していると言える。
 さて、個人への注目と集団の凝集力の減退とは、裏腹な関係にある。社会教育論では、「共同学習論」に顕著に見られるように、往々にして「学習集団」の凝集力を前提にしてきたのであり 10)、そうでない場合でも「学習集団の組織化」を重要な課題としてとり挙げるものが多かった 11)。けれども近年、集団の凝集力を前提にしたり目標にしたりすることが、一層困難になってきたと言うことができる。集団の存在形態が変わってきたのである。
 人々は、家庭や職場を含めたあらゆる社会の諸集団に対して、部分的な関係を指向するようになってきたと言われている。例えばNHKの調査によれば、「理想の家庭像」が“家庭内協力”や“夫婦自立”であると答える者が若い世代には圧倒的に高く、また「職場の同僚とのつき合い」も“なにかにつけ相談したり、助け合えるようなつき合い”よりも“仕事が終わってからも、話し合ったり遊んだりするつき合い”が好まれる傾向にあるという 12)。すなわち、“一方の集団では満足されえなかった誇りを別の集団のなかで補ふことができる”ような、あるいは“ひとりひとりの内側の価値観を複数化し、いはば欲望を分散させることによって、満足の機会を増やすことができる”ような“複数の集団への帰属”が一般化しているのだと言える 13)。
 こうした状況の中で、いかなる「学習集団」も個々の成員の認識全体に関与することなどできない、と考えざるをえなくなってきた。どのような「学習」の機会であっても、それは「学習」の主体の認識展開全体にとってみればほんのささやかな部分であるということが強調されるようになったのである。そしてまた、社会教育論・生涯学習論が、その認識展開全体に対して有効な社会の諸制度を整備しようとするのであれば、社会の諸制度を利用して行なわれる意図的な「学習」を、個々人の認識展開全体としての「学習」の一部分であると捉えるのは、むしろ必然的であると考えるべきであろう。

B ライフスタイルの変化
 社会教育・生涯学習論で、「学習」は一般に「生活」と密接な関連をもつものとして概念化されてきた。しかもその関連の仕方は、「生活」課題を「学習」の内容とするものであったり、「生活」の中に「学習」の契機を見いだすというものであった。前掲の藤岡による「学習」の定義(注6)はその典型であるし、また「学習」概念を広く捉えることを主張した古野でさえ、“学習の生活性”という言葉を用いている。
 けれども他方で、この「学習」と「生活」との結び付きが、こんにちまったく違ったものになってきている。鈴木眞理は、「成人の学習に関するインタビュー」の結果から、次のような仮説を立てた。
“これまで考えられてきたような、その地域の行政が提供する学習機会を利用して、地域の人びとと共同で、共通の学習課題をとりあげるというような、社会教育における基本パターンが変わっている、あるいは、そのような傾向の可能性が存在している、といえるのではなかろうか。脱地域化としたのは、住んでいる地域の外でという意味と、地域の人びととだけではなく別な関係の仲間とあるいは一人でという意味と、学習内容の多様化ということで必ずしも地域の共通関心事のみが学習課題になるわけではないという意味と、である。” 14)
 鈴木の言う「脱地域化」は、「生活」の場と「学習」の場とが乖離してきている現象を指すものと考えてよかろう。このように、古い「学習」と「生活」との関連は、次第に相対化されつつあるように思われる。では、それに変わる新しい「学習」と「生活」との結び付き方は、どのようなものであろうか。
 生涯学習の理念の導入以来「学習」概念が、“家庭における子供の数の減少や家事労働の軽減、職場における労働時間の短縮あるいは寿命の延長などにともない、自由時間が増大している”ことが、“多様な学習活動を可能にしてきた理由の一つである”(1981年中教審答申)、とする文脈において語られることが多くなった。すなわち、「学習」概念が自由時間との関連において用いられるようになってきたのである。
 1987年に経済企画庁が『生涯レジャー学習』という報告書をまとめている 15)。この報告書は、“人生をより創造的なものとするためにはレジャーのための学習が必要になってくる”という問題意識のもとに書かれている。ここでレジャーは“「究極の目的として自己実現を志向する」時間” 16)であり、したがって「レジャー学習」とは、自由時間を「自己実現」で満たすための「学習」ということになろう。
 もちろん、こういった考え方に対して“レジャーは余暇として、時間的に把握されるのであり、もっぱら労働力の再生産としての意味が大きくなるのである” 17)という批判は妥当である。しかし、この報告書は次のような立場をとる。
“仕事と余暇に関する日本人の生活意識は、働き盛りの間は仕事に専念して退職後に大いにレジャーを楽しむというライフスタイルよりは、仕事での生きがいと余暇での楽しみを調和させながら人生を過ごしたい、という方向にますます傾斜していくと思われる。” 18)
 すなわちこの報告書は、労働と余暇の双方でそれぞれ「自己実現」がなされることが可能であるという見通しに立って、ことさら余暇における「自己実現」のための「レジャー学習」について述べているのだと言える。
 ここで重要なのは、労働と余暇との関連性を積極的に考えられていないという点にある。労働と余暇、あるいはあらゆる生活時間の単位をばらばらにして、それぞれの枠の中で「自己実現」をめざすという認識のあり方が、「学習」概念にも影響を与えるのは当然であろう。報告書は、レジャー能力を高めるという「自己実現」のための手段的価値しか「学習」に認めていないが、ここから「学習」自体が「自己実現」の場や機会であるという認識に達するのは容易である。
 1992年に出された生涯学習審議会答申『今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について』では、次のように述べられている。
“人々は学習することで新しい自己を発見し、喜びを感じるのであり、学ぶことそれ自体が生きがいともなり得るのである。人は存在するために学習する必要があるとも言えよう。”
 このように、「学習」自体が自己目的化する方向性を観察することができるのである。人が“生活をいくつかに分けて複数の役を演じる” 19)という世界では、「学習」は、時間単位でいくつかに分けられた「生活」の中の一つの要素となる。したがって、このような意味での「学習」は、実践性によって判断することも、「生活課題」によって特徴づけることもできない。「自己実現」している場であれば「学習」の場であるとすることもできるし、また逆にいかなる場であっても「自己実現」が達成されているか否かが重要な意味を持つのであって、それが「学習」であるかどうかは二次的な意味しか持ち得ないということもできるのである。
 なお付言すれば、ここで見たような「学習」の捉え方は、決して自由時間との関係でのみなされるのではない。労働との関係では、職業能力開発のための「学習」が、労働の場での「自己実現」をめざしていると考えることになろう。
C 消費財としての「学習」
 もうひとつライフスタイルの変化と関連するのは、@ライフスタイルが変化してきたから「学習」の消費が増加する、あるいは、A「学習」の消費を促進するためにライフスタイルの変化が望まれる、とする文脈においてである。
 @は次のような状況のことを言っている。“わが国は急速に‘脱工業化’あるいは‘情報化社会’と呼ばれる段階に移行しようとしている。すなわち、……労働や家事の時間が減って、学習や余暇にあてられる‘選択的時間’がふえている。” 20)このような認識は、1970年頃から徐々に一般的になっていったが、「学習」が消費財として明確に位置づけられるようになったのは、Aの認識が登場してからである。
 Aの認識は、日本経済が1980年代に入いって石油危機による経済停滞からいち早く回復したことによる、次のような事態の遭遇に端を発する。すなわち、“昨今、わが国と諸外国とりわけアメリカとの貿易摩擦が激化しており、……財政難の下ではあるが、官民協力して内需振興策を講じ、貿易摩擦の解消と社会資本の整備を図ることが必要であると言えよう。” 21)そしてその際、内需振興策の具体的な方針として、次の点が挙げられているのである。“余暇時間の少ないことが消費拡大の障害となっていることから、週休2日制の推進等による「可処分時間」の増大を図るべきである。労働時間の短縮と消費のレベルアップを日本人のライフ・スタイルの問題として考える必要がある。” 22)
 これ以降、「学習」は情報産業の財としてみなされ、「学習」の消費を伸ばすための諸条件が整備されるようになる。労働時間短縮などの施策化が進んでいく要因のひとつとしても、「学習」など「時間を消費するタイプの消費行動」を喚起する目的があったのだと言える。
 このようにして振興の対象となった「学習」産業は、1990年の『生涯学習推進のための施策の推進体制等の整備に関する法律』、またそれにともなう通産省政策局生涯学習室の発足などによる法的・行財政的援助を受けて、現在の生涯学習体制を考える上で“ビジネス・トレンドとしての教育マーケットを無視することはできないだろう” 23)と言われるまでになってきている。
 「学習」は消費財として扱われるようになると、その概念が流動化するのは当然である。財の供給は、需要をもとにして行なわなければならない。需要は流動的であり、時には供給側が需要を喚起することも必要である。現在「学習」という語が市場価値をもっているから、供給側は「学習」概念を無限に広げ、あらゆる財を「学習」として流通させようとするのである。“映画も音楽も……すべては学習の対象である” 24)。

D 地方自治体の独自性追求
 「学習」と「まちづくり」との関係は、すでに1969年の『コミュニティ』(経済企画庁)、1979年の『地域社会と文化について』(中教審答申)などで示唆されていたが、本格的に施策化される契機となったのは臨教審第三次答申であろう。そこで述べられていることは、“生涯学習社会にふさわしい、本格的な学習基盤を形成し、地域特性を生かした魅力ある、活力ある地域づくりを進める必要があ”り、そのために地方自治体による「生涯学習の基盤整備」と、それに対する国の援助が必要である、ということである。
 国は地方自治体の「まちづくり」を支援するため、法律を整備し、自治体の構想を承認し、必要があれば財政的な援助やその他の協力を行なう(『生涯学習推進のための施策の推進体制等の整備に関する法律』)。したがって、「まちづくり」の内実は、地方自治体の構想に委ねられていることになる。
 地方自治体にとってみれば、「生涯学習まちづくり」というのは総合行政である。生涯学習によって「わがまち」の特色を出さなければならないのだから、さまざまな行政主催の事業が、生涯学習事業として関連づけられ、網羅されなければならないのである。例えば、山形県総務部生涯学習・学事課は下の表(「生涯学習のための主な方策」)を作成して諸施策の総合を試みている。 25)

 1 人間形成の基盤となる家庭生活の充実に向けて
 2 快適で生きがいのある生活の実現に向けて
  (1) 楽しみや生きがいづくりのためのスポーツ活動
  (2) 健やかに生活するための学習の推進
  (3) 安全に生活するための学習の推進
  (4) 豊かな消費生活を送るための学習の推進
  (5) 快適な環境の中で生活するための学習の推進
 3 創造的文化地域めざして
  (1) 魅力ある文化圏域づくりをめざした学習の推進
  (2) 身近な地域づくり活動の推進
 4 喜びと活力あふれる地域をめざして
  (1) 明るい長寿社会をめざした学習の推進
  (2) 21世紀社会の担い手としての青少年の育成
  (3) 男女共同社会をめざした学習の推進
  (4) 生き生きと生活できる福祉社会をめざした学習の推進
 5 産業が一層飛躍する地域をめざして
  (1) 農林水産業の振興のための学習の推進
  (2) 商工業、サービス業等の振興のための学習の推進
 6 世界に開かれた地域をめざして

 この表はさらに細目に分かれており、その各々の項目に担当部局が付されている。名前が挙げられている部局は以下の通りである。総務部、企画調整部、生活福祉部、環境保健部、商工労働開発部、農林水産部、土木部、国体局、教育庁、警察本部、選挙管理委員会、(財)県生涯学習人材育成機構。これほど多くの行政主催事業が、「学習」推進事業として位置づけられている。このような「学習」を契機とした施策の総合化は、「まちづくり」の内実を形成する市区町村行政ではさらに必要とされているであろう。

E 福祉国家の正統化
 「学習」概念が拡張してきた背景として最後に挙げるのは、福祉国家の正統化との関連、つまり国家が国民の自己実現を保証する主体として登場してきたことについてである。
 福祉国家の財政理論において、財政配分の正当性は、概ね次の3点によって保障されている。第一に、「非競合的であるような財」は、“同一の便益がすべての人びとに、しかも互いに妨げられることなく享受できる”から、排除を行なうことは非効率である 26)。第二には、“消費は競合的であるが排除を行えない場合”、つまり、二件の火事のときの一台の消防車のように、双方に対処できないという意味で競合的でありながら、どちらかの需要を排除するというわけにはいかない場合である 27)。そして第三に、「価値財」と呼ばれるもので、政策が個人の選好にある一定の価値観をもとにして干渉する場合である 28)。教育財政の場合も、このような判断によって正当化されるのだが、その場合、私的便益と公的便益とに分けてそれぞれ計算され、公的便益分が公的支出によって賄われるということになる 29)。
 けれども、今日の生涯学習推進体制下の財政支出は、このような理論によっては把捉しかねる。競合的でありしかも排除可能な「学習」に対しても、盛んに支出がなされている。唯一「価値財」という基準にかなうかもしれないが、それだけでは、あらゆる財が「価値財」として見なされる可能性を否定し難く、上述の理論は意味を喪失する。
 宮嶋勝は財政支出の広がりを、次の4つの方向性に分類し説明している。@社会倫理観に基づく公共サービスの拡がり、A社会的便益の拡がり、B地域社会の基盤整備のための投資機能に基づく公共サービスの拡がり、C地域住民の要求レベルの高度化に連動して、公共使命の高度化からくる公共サービスの拡がり。 30)このような分類はいちおう妥当であり、分析の道具としては有効であると思われるが、もはや財政支出を正当化し、財政支出の基準となる理論では有り得ない。
 ハーバーマスはこのような事態を次のように説明している 31)。
 晩期資本主義国家は、自由主義国家のもとでは相対的に独立していた再生産過程に、みずからのイニシアティヴによって介入するということによって特徴づけられる。しかし、国家による経済システムへの介入という事態は、国家が自らを正統化する必要を帰結する。普通選挙のメカニズムが成立している現代における正統化は、行政システムの自律性を条件としている。なぜなら、再生産過程への介入の意思決定を国民の参政権に委ねることはできないからである。したがって正統化は、“内容的には漠然として大衆的忠誠心を調達するが、しかし国民の政治参加を回避する”ように行なわれ、体制迎合とむすびついた「国民の私生活志向」(昇進志向、余暇志向、消費志向)を助長するものとなる。
 このように、一旦経済システムに介入した国家は、その正統化のために、財政支出をともなった「国民」生活への介入を漸次深めていくことになるのである。
 「学習」概念の拡張もまた、このような国家装置の正統化と関連づけて解釈することができる。すなわち「学習」概念が拡張し、人々があらゆる「学習」機会を選択的に利用できるようになればなるほど、「学習」は一層人々の私生活的な興味の対象となり、正統化を機能させることができるということになる。実際に我々はすでに、政策過程で「学習」という語が頻繁に用いられ、財政支出を合理化しているのを見てきているのである。

V 「学習」概念拡張の意味

A 自然言語とシステムの要請する概念
 さて我々はここまで、「学習」概念の拡張の実態とその背景となる五つの状況を概観してきた。概念拡張の背景は、人々の意識や生活の変化からくるものと、どちらかというと政治・経済的状況から要請されてくるものとが混合していた。ここで、この二つの要素を分離して考えてみよう。前者は自然言語(我々が日常使っている言葉)から生成されてくる概念であり、後者は政治・経済的な必要性から、前者の概念の意味をずらして作られた、システムの要請する操作的概念である 32)。ただし、両者を明確に分離することはできないし、特に自然言語の変遷過程をたどることはきわめて困難な作業となるだろう。したがって、以下では主にシステムの要請する概念を分析するにとどまる。
 自然言語としての「学習」概念は、その使用の頻度が増しているというほか、それほど根本的な濫用が進んでいるわけではない。何か体系的な知識を獲得する場合に使われる他、心理学的な意味で用いられることが多い。あるメーカーのコンピュータの学習用ソフトのTVコマーシャルに、「学習の森へようこそ」というキャッチフレーズが使われているが、これは体系的な知識を意図的に学ぶという語用例である。TVのバラエティーショーで、番組の構成に不釣合いな教養的な話題が出て、お笑いタレントのひとりが「学習しちゃったよ」と言って茶化すとき、この「学習」の意味は非意図的に体系的な知識を獲得することである。また、猫がトイレを覚えないとき、「少しは学習しろよ」と言って叱るが、これは心理学的な意味での「学習」である。
 システムの要請する概念はこうした自然言語を利用し、日常的な語用を少しづつずらす。特に「生涯学習」という言葉は、自然言語としての「学習」を麻痺させるのに役立っているように見える。山本恒夫は、「生涯学習」をファジィ概念として把握しようと試みている。この捉え方によれば、「学校の中での学習活動」や「社会の中での学習活動」は度合1の「生涯学習」であり、「ボランティア活動」は度合0.6、「スポーツ活動」「文化活動」は0.5、「趣味・レクリエーション活動」は0.4、そして「娯楽」は度合0.3の「生涯学習」であるということになる 33)。もちろん、山本の捉え方が活動を中心に考えているのに対し、自然言語は行動の変容のことを言っているという差はあり、そこに概念上の違いが生じてくるのも当然かもしれない。しかし、次のように言うことも可能である。
 すなわち、「学習」概念の拡張は、生活の新たな領域の対象化や意味連関の転換、したがって生活の新しい秩序形成を表しているのである。そしてその新たな領域とは、何か人々の「活動」と関係する事柄なのではないか、ということである。このように考えるなら我々の課題は、システムが要請してきている「学習」概念に付与された新しい意味と、それによる新しい秩序化の方向を明らかにすることであると言える。

B 「学習」概念の新しい方向性と生活の私事化
 従来、生活の諸領域は、例えば次のように分類することが可能であった。
  食うこと/寝ること/働くこと/生殖すること/
  考えること/夢想すること/遊ぶこと/闘うこと/
  愛すること/飾ること/……
これらの諸領域はそれぞれ諸個人の重層的な欲求と結び付いており、したがってこの分類は、人間のどの欲求を充足する機能をもつかということを基準としてなされているとも言える。そして周知の通り、欲求は階層性をもつものと考えられてきた。すなわち、食欲などの生理的欲求は「低次の欲求」であり、これを充足した後にはじめて「高次の自己実現欲求」を満たすことができると考えられていたのである。したがって、上述の生活の諸領域も階層性をもつと仮定することができる。もちろんそのような認識の誤謬は幾度も指摘されてきたが、重要なのは、この認識が一般に妥当性をもち得たというということである。また、この諸領域の分類は、生活時間と密接な関連をもっている。例えば<食うこと>という領域の内実は、食欲を満たしている食事の時間であるということになる。
 <学習すること>という生活領域は、上述の諸領域に並列するようにも思われる。しかし「学習」概念の拡張は、さまざまな生活領域の中で「学習」が固有の機能を発揮することになるから、そのような並列を無意味化する。すなわち、一定の生活時間の中で我々はその時間の主題的な欲求を満たすとともに「学習」もしているということになる。「学習」は、さまざまな生活の諸領域に横断的に介在することになるわけである。もちろん「学習」の介在によっても、<食うこと>の領域と食欲、食事時間との結び付きが壊されるわけではない。しかし、<食うこと>によって満たそうとするのは、食欲という「低次の欲求」ばかりではなく、「学習」に付随する何らかの「高次の欲求」であるということになるだろう。あるいは食欲自体が、「高次の欲求」を含み込んだ重層的な概念として考えられるようになったと言ってもよいだろう。ともかくこうして、生活諸領域の階層性は妥当性を失っていく。こういった傾向は、各々の生活領域がばらばらに分断され相互に関連を失って、それぞれの領域で「自己実現」がなされるという、我々が先に見たライフスタイルの新しい傾向と無関係ではない。
 もちろん<学習すること>という生活領域を設定することは可能である。けれどもここで語られているような合理性のもとでは、<学習すること>が他の生活領域に影響を及ぼすわけではなく、その領域の中で「自己実現」がなされるにすぎない。また「学習」時間が「学習」を独占わけでもなく、したがって<学習すること>という生活領域を設定することにそれほどの意味はないということにもなる。
 重要なことは、このような生活諸領域の意味や連関性の転換が、各々の生活諸領域を限りなく私事化していくかもしれないということである。私事化するというのは、諸個人が自己の欲求の内側に閉じ込もり、他者との交流もその枠内でなされるようになることである。それはしたがって、他者と交流することによって自己を相互に変革し、他者と合意を形成し客観を創造していくという共同性が失われていくということでもある。それぞれの分断された生活領域の中で、個々人がその場に適した役割を演じ、その場から獲られる最大の欲求充足を引き出そうという合理性においては、他者との交流もその場に適した役割を演じる役者どうしの表面的な交わりであり、自己の生全体と他者の生全体とのぶつかり合いとしての共同性は期待し得ない。
 めざされるべきものは、生活諸領域の階層性に基づいた公共性を創造すること 34)でもなければ、生活諸領域の私事化によってその階層性を超克することでもない。「学習」概念も、生活を私事化するための道具として拡張するのではなく、生活諸領域の階層性の克服に基づいて共同性を形成していくための概念として拡張していかなければならない。

C 動態把握概念としての「学習」
「学習」は動態を把握する概念である。「学習」は人間の変化しつつある意識に関係する概念だからである。「学習」概念が拡張し広く使われるようになるということは、したがって人間の諸活動を動態把握する必要性と関係があると考えることができる。
 辻功は、「学習要求の把握」が“生涯学習をすすめる際に、最も大事にしなければならない” 35)ことだとするのだが、その一方でその困難さを指摘し、それが可能であるかという問いを立てる。彼によれば「学習要求の把握」が困難である理由は、第一に被調査者の回答が建前である場合が多いからであり、第二に人間には“意識層の深層に沈滞して普段は自覚されないニーズがある”からであるという 36)。辻は、この「自覚されないニーズ」を“「社会の要請」、「必要課題」に近いもの”であるとしているが、こういった考えは、体制にとって望ましい「学習課題」を「自覚されないニーズ」として人々に押し付けることを正当化する危険がある。
 「学習要求」の把握が困難な理由はむしろ、「学習要求」の多面性と「学習」の動態性にあるのではないだろうか。すなわち、人間の欲求は一義的には確定困難である上、時間を追って変化していってしまうものである。それを把握しようとすれば、予め人間の欲求をリスト化し、多面的で動的な実際の欲求をそこに当てはめるということになる 37)。「学習要求」に限らず、現代の体制を形成する合理性の一つに「ニーズの把握」があることは誰もが認めるところであろう。商品経済にとっては消費者のニーズを把握することが重要であるし、行政施策にとっても住民のニーズが前提にされなければ施策は正当化されない。
 「学習要求」の把握は、多元的で動的な欲求を、一元的で静的な欲求として意識化しその欲求を充足するための行為に駆り立てることを意味する。このシステムはそれ自体管理的であるが、前節で述べた生活諸領域の私事化に適合的であると言うこともできる。なぜならこのシステムは、それぞれの生活の領域において満たすべき欲求を明確にすることができ、それによって個々人は、その場に適合した役割を適切に演じることができるからである。したがってこのシステムは、人間の多元的で動的な欲求の全面的な顕現を抑制することで、自己の内的世界と他者の内的世界とのズレを最小限にとどめる機能をもっていると言うこともできるのである 38)。

D 共同性獲得のための「学習」へ
 これまで我々は、「学習」概念の拡張という現象を通して、生活領域を私事化することで人々を管理していくシステムとその合理性について考察してきた。では、このようなシステムにからめとられないためには、どのような方法がありえるのだろうか。
 一つには、自己の欲求を把握され囲い込まれないように、欲求をさまざまな方向に散らしていくという戦略がある。“《追いつき追いこせ》競争に追い込まれたとしても、すぐにきょろきょろあたりを見回して、とんでもない方向に走り去ってしまう”「スキゾ人間」 39)のような生き方である。実際、青年層のアイデンティティ拡散現象を指摘する論者は多い。
けれどもこのような生き方は本当に戦略的に成功に向かっているのだろうか。現実には、“自由に遊ぶことを強制されてるって感じの” 40)状況や“ある種のウォークマン中毒者に見られるように、メディアと対になって自閉的な領域を形作り、マス・コントロールを経た画一的な情報に身を委ね続けるといった症状” 41)が一般化しているのではないだろうか。どうも戦略とはなりきっていないように思われる。
 むしろ我々は、逃げることと同時に、怨念・回想といった静態的な意識の深みも、ともに武器とする必要があると考えるべきなのではないだろうか。自己を吟味すること、立ち止まって考えること、意識化しない、表現しないことによって、かえって自己の全体性を権利主張するような生き方である。したがって、共同性獲得のための「学習」とは、このように生活諸領域に分断されず、どの領域においても自己であり続け(と言っても、一義的に把握されてしまうようなうすっぺらなアイデンティティではない)、そのような自己が他者の生全体と出会うことによって、自己と他者との間に客観を形成していくような行為なのである。

<注>
1) 三井為友「共同学習の基礎理論」『月刊社会教育』 No.13,1958年12月,p.13
2) 室 俊司「成人の学習活動と認識」『日本社会教育 学会紀要』No.3,1966年, p.2
3) 『勝田守一著作集6 人間の科学としての教育学』 国土社、1973年
4) 例えば、嶺井正也「発達論から解放論へ ― 教育科学における視座の転換」海老原治善他編著『現代教育学のフロンティア』エイデル研究所、1990年。なお、障害者教育など、「学習」の主体の意志が軽視される 傾向の強い領域を、社会教育もまた抱えていることを 忘れてはならない。
5) 勝田による社会教育概念に対する批判は、既に宮坂廣作が行っている。“教育主体が介在しなければ「教育」とは言えないなどという伝統的教育観は、学校教育概念としても斥けられるべきであろうが、社会教育 においては峻拒されるべき有害な固定観念である。” (『現代日本の社会教育』明石書店、1987年、p.146〜 150)
6) 藤岡貞彦「社会教育実践分析試論」五十嵐顕他編『講座日本の教育9 社会教育』新日本出版社、1975年。彼によれば「成人の学習」とは、“成人に客観的にあたえられている課題を、成人が主体的に必要としてと らえ、この課題達成のために認識を実生活のなかで自 覚的に深化させていく過程である。”(p.178-179)
7) 宮坂,op.cit. 彼によれば「社会教育における学習」とは、“ひとの個人あるいは集団が、自己の人間的可能性を最大限に実現するためにおこなう自己形成の主体的営為”である。(p.150)
8) 辻功・古野有隣編著『日本人の学習 ― 社会教育に おける学習の理論 ― 』 第一法規、1973年、p.3-6
9) Ibid.,p.4
10) 例えば矢口悦子は、共同学習論の問題点として、“共同で学習しているという実感さえあれば共同学習という言い方に誰も意義をとなえることができない”点を挙げている。(「わが国における共同学習論の系譜」 『日本社会教育学会紀要』No.28,1992年,p.1
11) 島田修一・藤岡貞彦編『社会教育概論』(青木書店、1982年)では、“社会教育法に規定されている「実際生活に即した文化的教養を高め」る……住民の学習を組織することが「一定区域内の住民」にたいする社会教育本来の役割であることは明らかである”と述べている(p.205)。ここで「学習の組織化」とは、「学習集 団の組織化」と「学習内容・方法の組織化」との二重 の意味が含まれていると考えられる。
12) NHK世論調査部編『現代日本人の意識構造[第三版]』日本放送出版協会、 1991年
13) 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中公文庫、1987年、p.136-7
14) 倉内史郎他『生涯学習の生態学 ― 成人学習の個別 化状況を探る』(野間教育研究所紀要第37集)1993年、 p.17
15) 経済企画庁国民生活局『生涯レジャー学習』1987年
16) Ibid,p.40
17) 上杉孝実「「週休二日制社会」と社会教育研究の課 題」日本社会教育学会編『週休二日制・学校五日制と 社会教育』東洋館出版社、1993年、p.11
18) 経済企画庁,op.cit.,p.15
19) 山崎,op.cit.,p.138
20) 日本経済調査協議会『新しい産業社会における人間 形成』1972年、p.14-5
21) 日本経済調査協議会『内需振興策 ― 転換期への対 応』1985年、序
22) Ibid.,p.31
23) 『社会教育』(特集・民間生涯学習事業トレンド分 析)552号、1992年6月、 p.7
24) Ibid.,p.28
25) 山形県総務部生涯学習・学事課『生涯学習振興施策 の概要』1992年
26) マスグレイヴ『財政学』[Public Finance in theo- ry and Practice] 木下和夫監修、大阪大学財政研究会 訳、有斐閣、1983年、p.64
27) Ibid.,p.65
28) Ibid.,p.98
29) Ibid.,pp.249-255
30) 宮嶋勝『公共政策論』学陽書房、1990年、p.21
31) ハーバーマス『晩期資本主義における正統化の諸問 題』[Legitimationsprobleme Im Spatkapitalismus]  細谷貞雄訳、岩波書店、1979年、p.56-8
32) この二者の他に、分析の必要性からこれらの概念全体の部分を抽象して作られる操作的概念(科学的な概念)があるが、とりあえずは、システムの要請する概念と一体化している科学的な概念を除いて、考察の対 象から除いておくことにする。なお、これらの概念の 分類については、次の文献を参考にしている。池田清 彦『分類という思想』新潮社、1992年
33) 山本恒夫「ファジィ概念としての生涯学習」『社会 教育』568号、1993年10月、pp.38-41
34) 「生活諸領域の階層性に基づいた公共性」というのは、<公共性を形成すること>という生活領域を、政治的欲求と結び付いた最高次の領域として設定し、その領域に他の諸領域で形成された意見を持ち込む、という考え方である。
例えばハーバーマス『公共性の構造転換』[Struktur- wandel der Offentlich- keit] (細谷貞雄訳、未来 社、1973年)
35) 辻功他『学習要求の理解』実務教育出版、1987年、 p.3
36) Ibid.,p.11
37) Ibid.,p.55
38) 例えば「学習メニュー方式」などはその典型であろう。「学習メニュー方式」とは、“学習者が学習したい内容を個々人の学習要求や学習条件等をもとに各種の講座・教室・学習会・研修会・講演会および通信教育・放送利用学習・在宅学習などの利用可能なあらゆる学習の機会を活用して必要な学習内容を選択し、学習者自身が学習プログラムを作成してこれに基づいた学習活動を主体的に実践する学習方式”であるとされる(佐藤守他編『生涯学習促進の方法』第一法規、1988年、p.98)。すなわち、「学習要求」として抽出しえる項目を挙げ、それに応じた既存の学習機会を対応させ、人々を決められた興味と関心に基づいて「学習」の場に集め、そこで「学習」の主体が(他者と同じであろうはずの)自己の欲求を満たすように配慮される、というシステムである。“議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよい。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それは当事者である個人が決める”(倉内史郎編『社会教育計画』学文社、1991年,p.153)。このような合理性が顕著に現れているシステ ムである。
39) 浅田彰『逃走論』ちくま文庫、1986年、p.36
40) Ibid.,p.24
41) Ibid.,p.42