調整局面を迎えたロシア経済

 ロシア経済が絶好調であることは皆さんご存知のことだと思います。昨年の経済成長率は8.1%、今年上半期は8.6%とさらに高まっています。このような高度経済成長の背景は、第1に、世界的な石油・価格の高騰により膨大な資源輸出収入が手に入ったことにあります。ロシアの輸出額は、石油価格高騰以前の2002年の1073億ドルから、2003年1359億ドル、2006年3552億ドルと急増してきました。第2に、このような輸出収入の急増を背景として個人消費が昨年は12.8%、今年上半期は14.1%と伸びてきました。
 ロシアの高度経済成長に対して、これまでも幾つかの疑問が投げかけられてきました。例えば、輸出拡大により、貿易(経常)収支黒字が大きくなり、為替レートは2002年の1ドル31.8ルーブルから今年度上半期には23.5ルーブルとルーブル高が続いてきました。このため、国内製造業は競争力を失い、今では非CIS諸国向け輸出の7割弱が石油や天然資源などの鉱物資源、17%がアルミニウムなどの金属・金属製品で、機械・設備輸出は4%にしかすぎません。また、インフレやバブルも懸念されてきました。長らく2桁を記録してきた消費者物価は2006年にようやく一桁になったのですが、昨年は11.9%、今年上半期は13.9%にまで再上昇してきました。
 しかしながら、ここに来てロシア経済は新たな段階を迎えています。まず、高騰を続けてきた石油価格がようやく下落を始めたことです。そして、サブプライムローン問題に端を発した世界的な金融不安は、グルジア紛争による欧米との対立と絡まって、ロシアの金融市場を揺さぶっています。ロシアの代表的株価指数であるRTSは、ピーク時の2487ポイントから10月6日は866.4ポイントまで下がりました。為替レートも26.18ルーブルとなっています。メドベージェフ大統領・プーチン首相がこの調整局面の乗り切りに失敗すれば、ロシア経済は再びハードランディングをするかもしれません。




日ロ関係のさらなる発展へ

 新年明けましておめでとうございます。会員の皆様にはお健やかに新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
 2000年にプーチン大統領が就任して以来、ロシアの経済は好循環を続けています。とりわけ昨今の石油価格の上昇とともに、ロシアの貿易黒字は拡大し、景気の下ぶれリスクの懸念は払拭されています。またプーチン大統領の下で、政治もきわめて安定的に推移して来ました。このような中、遅ればせながら、日本においてもロシア経済への関心はしだいに高まってきています。とくに自動車産業のプレゼンスには顕著なものがあります。輸出が好調なだけではなく、トヨタのサンクト・ペテルブルク工場にはじまり、日産、スズキ、三菱自動車とロシアへの企業進出予定が続いています。
 そして、これらの工場への部品供給や消費財輸出の増加が予想されることから、長らく停滞していた対ロ貿易、そしてシベリア鉄道による物流も復活の兆しを見せ始めています。いずれこの流れに乗って、神戸港とのロシアとの交易も増加することでしょう。
 もちろん、懸案なしというわけではありません。とりわけ、3月2日に行われる大統領選挙により、ロシアの政治構造にどのような変化が出るのか興味深いところです。メドベージェフ第一副首相が大統領に、プーチン大統領が首相に就任するというのが現在の流れですが、このねじれた統治構造が安定するのか、隣国に暮らす私たちも関心を持たざるを得ません。
 私たち兵庫県日本ロシア協会は、今年4月18日に、日ソ協会兵庫県支部連合会として設立されて以来、50周年を迎えます。ロシアの好景気が続き、日本におけるロシアへの関心が高まる中、およそ20年間の否定的な循環に別れを告げる良い時期が訪れています。この時期を活かすには、会員皆様のますます大きな力を得るとともに、会員拡大により新しい流れを作り出していくことが必要です。まずは会員皆様の斬新なご提案を得て、多様な活動を活発に推進し、会員拡大につながればと思います。協会の活動に従来にもましてご参加、ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。2008年がこのような年となりますよう祈念し、新年のご挨拶とさせていただきます。



日ロ関係のさらなる発展へ

 新年明けましておめでとうございます。会員の皆様にはお健やかに新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
 米国証券会社ゴールドマン・サックスが、2050年までにBRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)諸国が世界の経済大国の仲間入りをすると予言して以来、日本においてもロシア経済への関心が高まってきました。とりわけトヨタがロシア(サンクト・ペテルブルク)に組立工場を建設する計画の発表がこれを加速してきました。
 実際にロシアは、1998年の金融危機を乗り越え、プラス経済成長を続け、2004年にはGDPは7.2%の経済成長を遂げています。1990年代初めの10%を超えるマイナス成長、3桁インフレからすれば隔世の感があります。
 では、このロシア熱をさらに高めていくためには何が必要なのでしょうか。俗に今の日本と韓国、中国との間の関係は「政経分離」と言われています。日本とロシアとの経済関係にもこれが当てはまるのでしょうか。
 1990年代の日本とロシアの経済関係の悪化の第一の原因がロシアにおける経済状況の悪化であったことは間違いありません。しかしながら、それを両国の間に横たわる政治関係が悪化させたこともまた事実でしょうし、佐藤優『国家の罠』に描かれたように、日ロ関係が日本国内の政治闘争に翻弄されたことも事実でしょう。
 私たち兵庫県日本ロシア協会は、このような「政経分離の罠」を断ち切るため貢献していきたいと思います。そのためには、会員皆様のますます大きな力を得るとともに、会員拡大により新しい流れを作り出していくことが必要です。まずは会員皆様の斬新なご提案を得て、多様な活動を活発に推進し、会員拡大につながればと思います。協会の活動に従来にもましてご参加、ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。2006年がこのような年となりますよう祈念し、新年のご挨拶とさせていただきます。



日露修好150周年の年に

 新年明けましておめでとうございます。会員の皆様にはお健やかに新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
 2005年は、日露通好条約が1955年に伊豆下田でプチャーチン提督と江戸幕府との間で調印され、日露の国交が開かれて以来150年の節目の年に当たります。一昨年の2003年は、サンクトペテルスブルグ開都300周年を記念して「ロシアにおける日本文化フェスティバル2003(ロシアにおける日本年)」が行われましたが、今年も、同様に日露間で様々な事業、交流行事などが行われます。
 ロシアは、これから存在感をますます増していく国々BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の一つとして、その成長が期待されています。トヨタを初めとする日本企業のロシア進出に見られるように、しだいに日露間の経済交流は深まりつつあります。県内でも、兵庫県商工会議所連合会によりロシアとの経済交流活発化が提案され、兵庫県議会日ロ友好訪問団や極東ロシアビジネス・ミッションによる極東地域訪問、ヒムエウスペルトの神戸医療産業都市への進出など、ゆっくりとではありますが、交流は着実に深まりつつあります。
 私たち兵庫県日本ロシア協会も、日露修好150周年の節目を機会に、活動をさらに活発化させていきたいと思います。皆様からのさらなる御協力とご支援をよろしくお願いいたします。



新しい友好の輪をめざして

 明けましておめでとうございます。会員の皆様にはお健やかに新春をお迎えのことと存じます。
 ロシアでは、12月に下院議員選挙が行われ、また今春には大統領選挙が行われます。政治のことですから軽はずみな予想はいけないとしても、プーチン政権がさらに磐石となることは誰もが認めるところです。また、経済についても5年連続のプラス成長が達成され、安定感を増してきています。そして、サハリン油田やパイプラインを中心とした資源経済外交も活発化しています。さらに、他のCIS諸国との文化・経済交流もしだいに大きく輪が回り始めています。
 2004年は兵庫県・ハバロフスク地方友好提携35周年、神戸市・リガ市姉妹都市提携30周年という区切りの年となります。これらを機会として新しい友好の輪を目指してまいりたいと思いますが、このためには新しい、そして若い会員を増やしていかなければいけません。皆様からのさらなるご協力とご支援をよろしくお願いいたします。



ロシア、ラトビアなどとの関係改善を期待

 皆様にはお健やかに新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
 欧州連合(EU)は、準備が整えば、バルト3国を含む10カ国が2004年にEUに正式加盟することを昨年末に承認いたしました。また、 北大西洋条約機構(NATO)も同じくバルト3国を含む7カ国の参加を決定いたしました。これによりラトヴィアは、政治的にも、経済的にも、そして軍事的にも『欧州への復帰』という目標を達成することとなり、ヨーロッパの「普通」の国として活動することとなります。
 ロシアも、プーチン政権も任期後半のまとめの時期に入っています。政治は、チェチェン問題は残されているとは言え、大きな国内問題は起こらず、経済も1999年以来プラス成長を記録し、順調に推移しています。外交を含む日本の対ロ関係は現在は停滞状況にありますが、ロシアの状況がさらに順調に展開すれば、近い将来、改善、進展していくことでしょう。
 日本とロシア、ラトヴィア(リガ市)との関係がさらに改善することを期待しながら、普通の国になったロシアやラトヴィア(リガ市)のことを県民、神戸市民の方々がより身近に感じられるよう、微力ながら協会として努力してまいりたいと思います。会員の皆様のさらなるご支援、ご協力をよろしくお願い申し上げます。



「ベルリンの壁」


 1902年は日露戦争を2年後に控えた富国強兵の時代であった。この日露戦争に敗れたロシアは、血の日曜日事件を経て、ロシア革命によりソ連という社会主義国家へと移り変わる。社会主義体制は、第2次大戦後、中・東欧、中国などのアジア、キューバへと伝播し、興隆の時期を迎える。社会主義への憧憬を抱かれた凌霜諸氏も大勢いることだろう。しかし、1960年代からの衰退の時期を経て、1989年11月9日の「ベルリンの壁」開放を契機に、いくつかの国を例外として、社会主義体制は崩壊してしまった。

 社会主義経済システムが衰退、崩壊した理由は、資本家階級による搾取、失業者、景気循環を廃絶するという建前にもとづいて経済システムを設計したことにあった。悪平等主義が蔓延した労働者の意識は、国民所得(生産高)を極大化しようとする国家の短期的目標と合致しなかった。今期の生産高目標達成を第一に考える企業管理者の意識は、技術革新により長期的経済発展を達成しようとする国家の長期的目標とは合致しなかった。経済学の用語で言えば、労働者や企業、そして官僚のミクロの目的関数と国家の社会的目的関数は誘引不両立であった。

 21世紀が市場経済システムの時代であることは間違いない。では、市場は(すべての)問題を効率的に解決できるという建前で経済システムを構築してよいのだろうか。少なくとも、ケインズ主義によるマクロ経済安定化と失業保険や年金などの社会的セーフティーネットを取り入れたことが、市場経済システムが社会主義経済システムとの競争に勝ち残った大きな理由であることは疑いがない。

 1990年代の失われた10年間を経て、日本型市場経済システムはその輝きをまったく失ってしまったかのようである。しかし、現実に存在していた日本の経済システムは、(短期目標重視の)アメリカ型市場経済システムの良きオールタナティブ考えられていた(長期目標重視の)日本型市場経済システム(モデル)と同じものだったのだろうか。メインバンクは本当にメインバンクとしての裁量機能を果たしていたのだろうか。長期的雇用関係は、年功序列賃金と退職金をどこまで含むべきものだったのだろうか。こういった問題についての十分な議論なしに、なし崩し的に「市場競争」という建前に向かって突っ走る危うさを感じる。

この危うさの中で日本の大学は変革を迫られている。次の100年後、六甲台の学び舎はどのように変化しているのだろう。「国立」大学ではなくなっているだろう。競争原理をうまく取り入れながら、さらなる発展を遂げているのだろうか。「ベルリンの壁」のように無用の長物となり消え去っていなければ良いのだが。



新しいロシアと私たちの活動

 新年明けましておめでとうございます。会員の皆様にはお健やかに新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
 ロシアでは、1992年から続いたエリツィン時代もいよいよ幕を閉じ、3月に大統領選挙が実施されることとなりました。プーチン代行が有力候補ではありますが、ヤブリンスキーらの民主派政党、ジュガーノフの共産党、ジリノフスキーらの民族主義党もさまざまな運動を展開しています。マトリョーシュカの法則(ニコライ2世→レーニン→スターリン→フルシチョフ→ブレジネフ→ゴルバチョフ→エリツィン)によると、次は頭髪の薄い大統領が誕生するはずなのですが。
 新しいミレニアムのロシアは、どのような道を歩むのでしょうか。袴田茂樹青山学院大学教授の言葉を借りるなら、ロシアはこの10年間に「砂社会」化が進んでしまい、行き過ぎた個人主義がはびこってしまったように思えます。私たちの活動も、ロシアが再び安定を取り戻し、日本の人々が普通のロシアを見てくれるような社会造りにとって幾ばくかの役割を果たし続けるよう期待されます。そのためには、まず、会員の皆さんがロシアを本当に好きになっていただき(少なくとも興味を持っていただき)、活動に参加していただくことが必要です。私達役員一同も、皆様のますますのご支援ご協力を得て、このためのプログラムを色々と提供して行きたいと思います。よろしくお願い致します。



コーカサスの青い空


 今夏、黒海とカスピ海の間のコーカサス地方にあるアルメニアとグルジアを訪問しました。ご存知の方も多いとは思いますが、コーカサス地方はカスピ海の石油・天然ガス開発にわいており、日本も遅まきながら橋本前首相が「シルクロード外交」を提唱して、コーカサス諸国との結びつきを強めようとしています。とは言え、日本を含めた世界の目は、カスピ海に面して石油と天然ガスが採れるアゼルバイジャンに向いているのですが。

 多くのCIS諸国がそうであるように、アルメニアとグルジアの工業生産は90年を100とすると、93年にはそれぞれ37.2、28.9まで落ち込み、一人当たりGDPも、アルメニア620米ドル、グルジア850米ドルにまで落ち込んでしまいました(1996年)。なぜこのような工業生産の低下が起きたのか、を分析するのが私の仕事であるわけですが、ここではその他の印象書いてみたいと思います。

 まず、アルメニアでは環境問題が目にとまりました。旧ソ連では、アラル海の水位が下がり、死の海と化してきていることが知られていますが、アルメニアのセバン湖もこの60年間で水位が20メートルも低下し、とくに1980年代後半から90年代前半にかけて急激に水位が低下しました。80年代初めに作られた桟橋が浜に出てしまっているのが印象的でした。今は、工業生産や農業生産の低下、安全性の面から停止されていた原子力発電所の再稼動などによって水位の低下はおさまっているようですが、経済が回復し始めると、水使用が増え、水位低下、水質汚濁が再び進むことでしょう。

 また、自動車排気ガスの問題も深刻です。ガソリンが有鉛で、車の年式が古く整備が十分に行われていないためです。数年前に、サンクト・ペテルスブルク(旧レニングラード)で知り合いの車に乗せてもらった時、彼が「やっと少し新し目の車が買えてね」と言われて走行距離を見ると12万キロということがありましたが、アルメニアの車はそれに輪をかけて古く、借上車のベンツが25万キロ、ソ連製ボルガにいたっては70万キロ!車の数はモスクワやサンクト・ペテルスブルクに比べればはるかに少ないのに、エレバンの方が目のチカチカはひどい気がしました。

 一方、グルジアでは内戦の後遺症が印象的でした。アルメニアも、アゼルバイジャンのアルメニア人地区ナゴルノ・カラバフの主権をめぐりアゼルバイジャンと争ったわけですが、国境の向こうという感じでした。しかし、グルジアでは、コーカサス山脈沿いの南オセチアと黒海に面したアブハジアでの民族対立をめぐり激しい内戦が繰り広げられました。既に停戦状態にあるのですが、後遺症がいたる所で感じられました。例えば、両地区から大量のグルジア人難民が首都トビリシに流入したため、ソ連時代には高級ホテルであったイヴェリアやアジャリアは難民収容所となってしまい、無残な姿をさらしています。余談ながら、このため、出張者は1泊4万円のシェラトン=メテヒ・パレス・ホテルしか宿まる所がありません。

 また、トビリシの街そのものは平穏なのですが、ペレストロイカ時代の外相として知られているシュワルナゼ大統領へのテロ行為が続いているため、彼が行く所何時間も前から物々しい警備体制がしかれます。私も、大統領府の写真を隠れて撮ったつもりが見つかってしまい、警備兵に詰問されてしまいました。

 こんなことばかり書いていると、アルメニアとグルジアはとんでもない所で、行ってはいけないと思われては私の思いに反するので、良いところをあげておきましょう。

 まず、アルメニアもグルジアも歴史のある国です。とくにアルメニアは、紀元前2世紀頃には南コーカサス一帯を支配する大国でした。ノアの箱舟が漂着したことで知られるアララト山も今はトルコ領ですが、昔はアルメニア内にありました。エレバン郊外のガルニでは紀元前3世紀の神殿、ゲガルドでは4世紀に歴史をさかのぼることができる洞窟修道院などがあります。歴史ファンには必見の価値です。

 そして、両国ともお酒がおいしいことで知られています。グルジアはツィナンダリなどのワインの産地として知られています。フランスワインがブームに乗って味を変えてきている中、古いタイプのワインを楽しみたいならばお勧めです。中には、ピロスマニの絵をラベルにしたワインもあります。また、アルメニアはナイリやファイブ・スターズといったブランディが有名です。エレバンにはカラオケ屋もあるので、カラオケをしながら、アルメニアの人たちとひとときの国際交流はいかがでしょうか。

 しかし、何よりも人々のホスピタリティがお勧めです。トビリシではタクシーがあまり走っていないので白タクしようと、二人連れのお兄ちゃん達の車を停め、探し探し目的地まで連れていってもらい、お金を払おうとしたら、「いいよ、いらないよ。良い旅を。」と言って走り去って行きました。いつもモスクワの白タクに困ってしまう私には、なんと気のいい人達。

 在留邦人ゼロという数字に示されるように、まだまだ日本とは関係の薄い両国です。ある大臣曰く、「この1年間で日本人に32組会った。JICAのxにも、商社のyやzにも。しかし、日本は表敬と調査だけだ。そして、おまえ達は33組目で、…。」このような言葉は、90年代初め、中東欧のあちこちで聞かれたものですが、しばらくすると中身のある話が進むようになりました。日本とアルメニア、グルジアの関係もきっとこのようになることでしょう。

 私達は、CIS諸国を見るとき、ロシアというフィルターを通しがちです。もちろん、ソ連時代の残滓はまだまだたくさん残っていますが、子供達がロシア語を学校で習わなくなっていることからも分かるように、この残滓はしだいに消え去っていくことでしょう。今回の訪問は、ロシア以外のCIS諸国の民主化や市場移行の難しさを考えるとき、その文化、歴史、多様性などをダイレクトに考えなければならないことを教えてくれました。このような機会を与えてくれたJICAと外務省に感謝します。



光の見え始めた?ロシア経済

 新年おめでとうございます。
 皆さんご承知のように、ロシア経済も一条の光が見えてきました。昨年のGDPや工業生産は引き続き5%程度の落ち込みを見せていますが、何よりも消費者物価の伸びが低くなってきたことが低くなってきたことが救いです。昨年8月には0.2%だけですが、対前月比で物価は下がっています。とりわけモスクワの活況は群を抜いています。ある先生はモスクワを田舎の闇夜に光り輝くパチンコのようだ、と喩えていますが、クレムリンの隣のマネージナヤで行われている大ショッピングセンターの建設を初めとして、街中で建設工事が進み、きれいに改築されたお店が増えてきています。所得水準も驚くほど上がってきていて、日本人でも二の足を踏むような高いレストランにニューリッチ族があふれています。残念ながら、ウラジオストックのような地方はまだまだ闇の中にありますが、このモスクワの一条の光が太い光となり、地方を照らし出す日がいずれ来るのでは、との楽観的期待を持って、今年はロシア経済を見ていきたいと思います。



ウラジオの1ヶ月

 新年おめでとうございます。
 昨年10月から11月にかけて1ヶ月、89年に続き2度目のウラジオストック滞在をいたしました。(ウラジオには以前「モーリェ」に参加していた山本千津子さんが元気に暮らしていて、大変お世話になりました。)
 まず驚いたことは、車が、それも日本車が急増したことです。89年には車をちらほらとしか見なかった市街では、今は日中は交通渋滞が当たり前。そして、市電やバスは、市長の人気取り政策で無料になったためか(山本さんのその後のはがきで12月から有料になったそうですが)、いつも満員で、運転手のおばさんが「乗ったら車両の中程へ移動してください」と連呼し続けて言います。物も出回るようになり、市民が生き生きと暮らすようになったなと感じられました。
 しかし、変わらないこともあります。おっちゃんと息子はトラックの上でふんぞり返って酒を飲み、おばちゃん一人が孤軍奮闘してキャベツを売っている姿。「お薦め料理はなに?」と聞いたら、「知らない」を答えるレストランのウエートレス。1ヶ月も暮らしているのに、ホテルのフロントが顔を覚えず、鍵を貰うために部屋の番号を言い続けた私。
 「スマイルはタダ」のマクドナルドがウラジオに進出するのはいつのことだろう(モスクワには現在マクドナルドのお店が3件あります。)



ルーマニアに暮らして

 ルーマニアに(90年9月末から92年8月末まで)2年間暮らしましたと言うと、たいていの方は「大変だったでしょう」とおっしゃいます。そこで、ルーマニアでの暮らしと勤務先だった日本大使館のことを2回に分けてお話したいと思います。
 ルーマニアに住んでいる日本人にとって最も大切なこと、それは、冬の間の食糧確保です。冬の間は野菜などの食料品が市場から姿を消してしまうからです。そこで、野菜が出回っている夏から秋は、市場へ出かけては大量の野菜を買い込み、それを茹でて冷凍するという「アリさんの生活」をしなければなりません。私達もルーマニアに着いてすぐに400リッターの冷凍庫を買って冷凍に励みました。(もちろん、ルーマニアでこんな冷凍庫は売っていませんからデンマークの通信販売会社から買いました。)
 また、ほとんどの日本人が高い家賃を払って住んでいる外国人用のアパートですら、冬の間、集中暖房が効かなかったり、お湯が止まったりします。このため、各日本人家庭では電気ストーブや大型の電気湯沸器が必需品です。我が家の場合、40リッターの電気湯沸器でお湯を沸かしていましたので、私がお風呂に入りお湯を使ってしまうと家内は2時間位はお風呂には入れませんでした。
 このように、基礎的な部分での生活は結構大変ですが、自分で楽しみを見つけられ始めるとルーマニアでの生活をエンジョイできるようになります。
 まず、春から夏は地方へのドライブの季節です。近場ではブカレストの北100キロほどの所にある「ペレシュ城」がお薦めです。このお城は、カロル1世という、1881年ルーマニア独立の際にホーエンツォルレン家から迎えられた王様が建てたお城で、ドイツ様式のかわいいお城です。遠い所では、ルーマニア北東部のモルドヴァ地方の修道院(内部だけでなく外壁にも最後の審判などの聖画が描かれている修道院が幾つか残っています)や北部のマラムレシュ地方の田舎の風景(みやこうせいさんが写真集を何冊か出版していますので、ぜひご覧下さい)を楽しむことができます。
 冬はブカレスト市内で音楽鑑賞です。オペラ劇場では毎日オペラが上演されています。木曜と金曜にはアテネ音楽堂でルーマニアで一番の「エネスク交響楽団」の演奏会が開かれます。その他、毎日どこかで演奏会やお芝居の公演が行われています。お世辞にも「うまい」とは言えませんし、お金がないので舞台装置もシャビーですが、私達にとっては安いことが何よりです。91-92年冬のシーズンの場合、入場料は一番高い席で70レイ(30〜40円)でした。そして、89年12月革命後はテレビが面白くなりオペラやコンサートに出かける人が少なくなったため、開園寸前に会場に出かけても、結構良い席のチケットが手に入ります。日本の入場料の高さ、手に入れにくさを考えると、ルーマニアで一生分のオペラを見たのではと思います。
 そして、今、ブカレストに住んでいる日本人女性の間では「マクラメ」編みが流行しています。マクラメはルーマニアの伝統手芸で、生成りの木綿糸で作るレース編みです。根気のいるものですが、出来上がると美しい壁掛けやテーブルクロスになります。(『毛糸だま』の91年12月号に紹介されていますので、ご興味のおありの方はご覧下さい。)
 確かに日本の生活のほうがはるかに楽で快適ですが、ユックリと生活を楽しめるという点ではルーマニアもなかなか良いところです。私も次はいつルーマニアへ行けるか。乏しいお財布と相談しているところです。

 大使館と言うと普通はパスポートを落とした時くらいしかお世話にならないと思いますので、今回は縁の薄い大使館の生活について簡単にお話したいと思います。
 大使館の機能の第一は、当然のことながら、外交交渉にあります。私がルーマニアにいた間は日本からルーマニアへの援助問題を除いてあまり大きな外交問題はありませんでした。それでも、ある条約交渉に同席させてもらったことがあります。一字一字を詰めていく作業ですので、一年近い予備交渉を東京で進めてきたにもかかわらず、予定された日程では交渉は終了しませんでした。そして、後でルーマニア側から提出された会議録はかなりが向こうの都合のいいように話が変わっていて、「交渉やり直しだ!」
 もう一つの柱は邦人保護です。私が行く直前のルーマニアでは皆さんご存知の東欧で唯一と言われた流血革命がありました。多くの日本人はまず大使館に避難しましたし、最終的には隣国のブルガリアへ大使館員を除いて邦人全員が一時避難しましたが、この準備をしたのも大使館です。旧ユーゴでも内戦が長い間続いていますが、(少なくとも私が帰国する直前の昨夏の時点では)旧ユーゴに滞在する日本人は大使館員とその家族、そして現地人と結婚した日本人女性だけでした。危険な地域にいる大使館員は邦人の面度を見終わった後も、情報収集のため現地に残ることが通常ですから最後は本当に命がでということになります。(蛇足ですが、いざという時に邦人保護を受けるためにも長期に外国に滞在する場合は「在留届」を出しましょう。あなたがその国にいることを大使館(領事館)が知らなければ邦人保護は受けられませんから。)
 このような外交交渉、邦人保護を行うための基礎は現地事情に着いての情報収集にあります。そして、この情報収集の基礎は何と言っても語学力です。外務省には「語学研修生」制度があり、入省後1年の本省での研修を終えると指定された語学を習得するため2年間、外務省から給料を貰いながら外国の大学に留学する優雅な制度があります。(小和田雅子さんがイギリスに留学したのもこの制度によるものです。)このような、ある場合には自分の意思とは無関係の語学習得を強制する制度により、ルーマニアのような小さな国の場合でも外務省にはルーマニア語を専門とする人が10人近く養成されています。
 外交官の重要な仕事には「ナショナルデー・レセプション」を催すということもあります。これは、各国のその国を代表する日(例えばアメリカは7月4日の独立記念日、フランスは7月14日の革命記念日)に、赴任国の高官や他の国の外交官を招待し、アペタイザーを食べてお酒を飲みながら会話を楽しみ、互いの交流を深めるというものです。ルーマニアの日本大使館の場合はエビの天ぷらが売りで、ナショナルデーの前になると(ルーマニアではエビは取れませんから)ギリシャのテサロニキという港町まで往復1400キロをトラックに乗って大使館員自ら買出しに走ることになります。
 日本の場合、ナショナルデーは天皇誕生日に催されています。昭和天皇の時にはナショナルデーは気候の良い4月29日に行われていたので問題はなかったのですが、今上天皇が即位すると外務省は困ってしまいました。12月23日は、ほとんどの国の高官や外交官はクリスマス休暇をとっています。そして、欧州や北米では雪が降る頃なので庭が使えず、手狭な大使公邸内でレセプションを開かねばなりません。このため、ほとんどの大使館は12月23日にナショナルデー・レセプションを催すことに反対しました。しかし、外務省は昨年より12月23日開催を強制しています。皆さん、どう思われます?



ルーマニアに暮らし始めてみて

 昨年2月24日、二人で伊勢に出かけ、伊勢の魚、(安いながらも)松坂牛の網焼きを食べ、「おいしかったネ。また食べに行こうネ。」と言いながら家に戻ると、「外務省東欧課の△△です。お電話下さい。電話番号は・・・」という留守番電話。これが私達とルーマニアとの直接のつながりの最初でした。
 色々とありましたが、結局、9月26日夕方におとぺに空港に到着。手荷物が1個出て来ず、なかなか素晴らしい出出しでしではありましたが、「ハハハ・・・!!ルーマニアやなぁ〜」と笑って過ごせるようになっていく自分が怖くなるとともに、この国の大きさを身にしみて感じたのでした。
 それからは、毎日が何か新しいことを見つけ出しては、それを楽しみに変えていくということの連続です。初めは、どこへ行けば野菜や肉を買えるかといった生活の基本を知ることがそうでした。しばらくして、人形を売っている所、熱帯魚や犬を売っている所等々が分かってくると、我が家の中は少しずつ賑やかになってきています。クリスマスには日本の狭い家では飾ることのできない立派なもみの木を飾ることができました。この国の人々にとっては自転車が結構貴重品であるのも分かりました・・・
 ドルショップが増え(良いこととは思えませんが)、店のデコレーションが少しずつきれいになり、市場経済を目指して街は少しずつ活気を増しています。私達がブカレストにいる間、新しいことを発見し、そこから楽しみを引き出し続けられるようルーマニアは換わり続けて欲しいものです。
                                  1991年1月27日
(日本から送られてきた小包になぜか入っていた”インスタント・トルコ・コーヒー”を飲みながら)



博覧会雑感

 私たちの街、神戸で開かれたポートピアが非常に大きな利益を上げて以来、日本全国に博覧会ブームが起きています。昨年も数多くの地方博が開かれました。私も、シルクロード博、瀬戸大橋博、

ホロンピア公園年博、そしてオーストラリアのブリスベンで開かれた国際レジャー博覧会(EXPO88)を見に行ってきました。かかっているお金が違うこともあるでしょうが、最も楽しかったのはレジャー博でした。どう違っていたのでしょうか。気づいた点を幾つか列挙したいと思います。

《並んでいるお客も楽しませよう!》
 古くは1970年の万博、そしてポートピアでも、炎天下入場待ちで並ばれたかと思います。レジャー博でも人気のニュージーランド館(特殊スクリーンを使って、ニュージーランド島を海から引き上げたマウイの伝説が語られました)やオーストリア館(オーストリアの原住民であるアボリジン作家Kath Walkerの幻想的なお芝居が上演されました)といったパビリオンでは1〜2時間待たないと入れませんでした。しかし、並んでいるすぐ側で、オーストリア風カントリーウェスタン(?)、マーチングバンドの行進、色々なストリートパフォーマンスなどをやってくれるので、それほど飽きることがありませんでした。日本でこれに近いのは、とりあえず建物に入れて、内部の装飾で観客を飽きさせないようにしたり、掃除をパフォーマンスにしている東京ディズニーランドだと思うのですが・・・
《再入場を認めよう!》
 レジャー博では、出口で目に見えないインクに腕にスタンプを押してもらうと再入場ができました。再入場の際に、専用入り口で紫外線(だと思う)を当ててスタンプが押してあるかどうかを確認するのです。
《ハイテクよりも楽しさを》
 今や日本の博覧会では立体映像が全盛期。おかげで、少年隊を鑑賞することもできました(瀬戸大橋博の松下館)。レジャー博の日本館も立体映像で江戸時代の庶民生活を見せていましたが、ちっとも楽しくない。ハイテク国日本を勉強しているような気がしました。逆に、クィーンズランド州館では、”カリブの海賊”のようにボートに乗って洞窟体験をしながら、クィーンズランドの四季を味わえました。また、カナダ館では、三面スクリーンしか使わなかったのですが、ストーリーの展開の面白さに場内は爆笑の連続でした(動きだけで笑わせるので、私も大笑いしました。)
《運営はもっといい加減に!》
 レジャー博では、毎晩終了前にレーザー光線と花火のショーがありました(これを見るために再入場する人が大勢いました)。終了は一応10時となっているのですが、ショーが始まるのが10時を過ぎていて、終わるともう10時半。それからも追い立てる出なく、ゆったりとした気分でホテルへ戻ることができました。
《もっとボランティアを使おう!》
 レジャー博でストリートパフォーマンスをしている人はほとんどがボランティアだそうで、レジャー博に参加していることをとても誇りにしているということでした。(日曜日に三宮で踊っている彼らを出演させるのは無理なんでしょうか)。

 まとまりなく、思いつくままに書きましたが、総じて言えることは、日本人はまじめに博覧会を運営しすぎるようです。お祭りはもっと楽しみたいものです。これから開かれるシロトピア博とか、花の万博ももっともっと楽しいものになって、何回でも行きたいと思うような博覧会になって欲しいものです。



シベリア横断鉄道の旅へのお誘い


 急行”ロシア号”は、モスクワ−ウラジオストック間9,297km(時差7時間!)を一週間かけて駆け抜ける、勿論、世界最長距離を走る列車です。そして、”ロシア号”がソ連を代表する鉄道であることは、数あるソ連の列車の中で、ウラジオストック発の上り”ロシア号”が1番、モスクワ発の下り”ロシア号”が2番という列車番号を与えられていることからも分かるでしょう。
 残念ながら、東の始発駅ウラジオストックは軍港であるために旅行者は立入禁止になっていますので、私達は、ナホトカという港町の太平洋駅からハバロフスクまでの915kmは別の国際列車”ボストーク号”に乗らなくてはなりません。(ウラジオストックが開放都市になり、私達がシベリア鉄道前線に乗れるようになるのも数年先のことと言われています。)
 ハバロフスクで”ロシア号”に乗り換えです。緑色の機関車に引かれた20両近い赤い車両が目指す”ロシア号”です。ソ連の列車は日本の列車よりもとても大きく見えます。ソ連の軌間は1,524ミリもあり(JRは1,067ミリ、新幹線や阪急、阪神は1,435ミリ)、日本のようなプラットホームはなく、乗り込むときに地面から見上げる形になるからでしょう。客席はソフトクラス(二人部屋と四人部屋のコンパートメント)とハードクラスに分かれていますが、外国人はソフトクラスにしか乗れません。私達の世話をしてくれるのは女性の車掌さんで、各車両に一人ずついます。彼女達の大切な仕事の一つは、各車両にある湯沸器でお湯を沸かすことです。このお湯は、お茶を入れるだけではなく、暖房にも使われます。このように各車両で暖房しているのは、集中暖房では、厳寒のシベリア大陸で故障し、暖房が効かなくなると、凍死するからだと言われています。
 ハバロフスクを出ると、すぐにアムール川の鉄橋を渡り、私達のシベリア鉄道の旅が始まります。見所は、何と言っても、シベリアの大地や白樺を中心とするタイガでしょう。また、世界一透明なバイカル湖に沈む夕日、ウラル山脈の中でアジアからヨーロッパへ入るときの感激などはたいしたものです。開業当時、バイカル湖を迂回する区間が未開通で、夏はフェリーボートで、冬は凍った湖面をそりで車両を渡していたことを知っていれば楽しいことでしょう。食堂車で食べるボルシチなどのロシア料理、停車中の物売りのおばさんたちからの果物などの買い物、ロシア人や外国人とのふれあいも思い出の一つです。長い一週間も、毎日新しい発見があるので、退屈せずに過ごせます。
 ”ロシア号”は途中70程の駅に停まりながら、バイカル湖へは3日目に、シベリア最大の都市ノヴォシビルスクには5日目に到着し、7日目にモスクワ郊外で近郊電車を見かけるようになると私達の旅も終わりです。おとぎ話の中に出てくるようなモスクワ・ヤロスラブリ駅が私達の終着駅です。きっと、あなたもこの1週間に満足されることでしょう。