ソ連経済について
(神戸大学経済経営学会『経済学研究のために(第5版)』,1991年4月)

 ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)は面積2,240万ku(日本の約60倍)と世界最大の国である。ソ連の中には11時間の時間帯があり,最東端のベーリング海峡が朝7時を迎える時,最西端のバルト砂州はまだ前日の夜9時である。ソ連には, ロシア人をはじめとする100以上の民族からなる2億8000万人の人々が15の共和国に分かれて暮らしている。1989年のGNPは約9000億ルーブル(1兆4500億ドル)で,アメリカ,日本についで世界第三位であり,原油,鉄鉱石,粗鋼など数多くの生産物の生産高が世界一である。このような巨大な国,ソ連の経済が今大きな転換期にさしかかっている。

I ソ連の経済史

〔ロシア革命〕
 1917年3月,第1次大戦により疲弊しきったロマノフ朝ロシア帝国が2月革命により崩壊し,同年11月7日,レーニンに率いられたボリシェビキ(現在のソ連共産党)は10月革命によって世界で初めての社会主義政権を樹立した。翌11月8日,ソヴィエト政権は,「土地にかんする布告」を発し,土地の国有化を宣言した。また,「管制高地」と呼ばれる最重要産業の国有化,銀行の国有化,貿易の独占化などの政策を実施し,社会主義ソ連経済の第一歩を踏み出した。

〔戦時共産主義〕
 ソヴィエト政権は革命後,反革命派白軍との内戦,日本を含む外国の武力干渉と戦わなければならなかったため,工業企業,鉄道,商業の全般的国有化,食料徴発制度の公布,労働の軍隊化といった政策をとった。内戦や食糧徴発制度などのために国土は荒廃し,農工業生産が低下し,紙幣が増発された。このため,インフレが発生し,現物経済化が進行した。この現物経済化をもって共産主義へ近付いたとする考えが戦時共産主義という名前を生み出したのである。

〔新経済政策〕
 1921年3月,疲弊した経済を立て直すため,食料徴発制度が廃止され,農民は食糧税を納めた後の余剰作物を自由取引できるようになった。他方,工業では,国家の直接的全面的管理が放棄され,小工業の国有化が解除され,大部分の国有大工業企業は「経済計算制(独立採算制)」へ移行された。このように,物資の生産,流通,分配を市場を通して行う政策を新経済政策(ネップ)と呼が。新経済政策によって工業生産と農業生産は,1926年頃には革命前最高水準であった1913年水準を回復するまでになった。

〔五か年計画期〕
 1924年にレーニンが死去した後,政権の座に就いたスターリンは,工業化論争と呼ばれるソ連経済の発展戦略をめぐる論争に勝ち, ソ連は農業を犠牲とした急速な社会主義的工業化の道を進み始めることとなった。1928年には第一次五か年計画が始められ,工業では,消費財生産を犠牲にした生産財生産中心の急速な投資が行われ,また,すべての企業が再び国有化され,企業管理は省庁からの詳細な指令によって行われることとなった。農業では,国有農場(ソフホース),集団農場(コルホース)への集団化が進められ, このようにして,国家計画委員会(ゴスプラン)を中心とした集権的計画経済の枠組みができあがっていった。
 第2次世界大戦による中断はあったものの, ソ連は日本と並び急速な経済成長を遂げ,アメリカにつぐ経済的,政治的地位を占めるようになったのである。

U ソ連型集権的計画経済

〔工業〕
 ソ連経済の計画には大きく分けて二つの種類がある。一つは,五か年計画などの中長期計画であり,期間の主要な投資プロジェクトや部門の成長率を定める。1991年からは第13次五か年計画が開始されることとなっている。
 もう一つは,工業企業管理者に何を生産すべきかを個別に指令する,年次計画などの短期計画である。ある年の年次計画の作成は前年の2〜3月に始まる(ソ連の年度は1月から12月まで)。まず,国家計画委員会より省,省の管理局を通して企業に統制数字という生産目標が下ろされる。企業はこれに対してより野心的な呼応計画を作成し,省に送り返す。省は物財バランス法という手法を用いて財の需給関係を調整し,再び企業に修正された統制数字を下ろす。企業はこれに対応するという形を数度繰り返し,最終的な計画が省から企業に下ろされる。この短期計画は命令的拘束力をもち,計画の達成がボーナスを受ける前提条件であるほか,計画に応じて作成される指図書がなければ,資材・機械補給機関から必要な資材を手に入れることができない。

〔農業〕
 農業の基本的な組織は国営農場と集団農場である。二つの組織とも複雑なヒエラルキー型農業行政機関の末端生産機関である点で工業企業とかわりはない。したがって,上級機関による生産決定,生産財の配給制,調達価格・生産財価格・小売価格の国家による決定という基本的な特徴は工業と同じである。
 農業の生産性は非常に低く,米国では1ヘクタール当たり4.15トンの穀物収量をあげているのに対し, ソ連では2.21トンにすぎない。そのため,貴重な外貨を利用して年間3,000〜4,000万トンの穀物輸入をしたり,年間1,000億ルーブル近い食管赤字を生むなど,今や農業はソ連経済のアキレス腱となっている。

〔集権的経済計画の特徴〕
1.計画・管理のヒエラルキー
 ソ連の経済管理は,ソ連邦閣僚会議(あるいはソ連共産党中央委員会)−国家計画委員会−省−省の管理局−企業というヒエラルキー型の組織構造によって行われ,企業間の水平的連関は補助的な役割しか果たさない。
 中央計画機関は,国民経済の構造や発展方向を規定するマクロ経済的意思決定だけでなく,投入・産出・販売などの経常的な企業活動にかかわる意思決定をも行い,消費選択と職業選択にかかわる意思決定が個人に委ねられるだけである。中央計画機関が決めた決定は計画命令として企業に伝達される。
2.物量単位による計画
 需給の調節のためには,現物単位(トン,キログラムなど)での経済計算と資源配分が積極的な役割を果たし,貨幣と価格の役害は主として集計を行う際の計算機能に限定される。そして,需給調節のために利用される基本的な手段が物財バランス法である。企業の生産課題も,どれだけ利益をあげるかではなく,例えば,粗鋼を何トン生産するといった形で与えられる。

V なぜペレストロイカが必要か

 コスタによれば,ソ連型集権的計画経済は次の三つの機能上の問題からその効率性を極度に損なっている。
 第一は,需要構造に生産構造を適応させることができないことである。まず,計画作成のために使われる物財バランス法では,波及効果が十分に反映されない。また,統制数字,資材割り当ては計画年度が始まる半年以上も前に作られるため,計画と現実の食い違いが出ることは避けられない。そして,企業の成功指標は総生産高指標であるため,利用者が購入するかどうかは企業の関心事ではない。極端な例では,釘を1トンを作れという生産課題を達成する最も簡単な方法は,消費者のニーズに合わせて多様な釘を少量ずつ生産することではなく,1本1トンの釘を作ってしまうことである。
 第二は,生産成果に比べて相対的に高い資源投入である。企業の成功指標である総生産高指標は,付加価値指標ではなく,中間生産物の価値を含んでいるため,原材料や労働力の過大な投入の使用を奨励することとなる。そして,価格が「コスト・プラス・マーク・アップ」で形成されたため,高い資源投入を行っても,企業はその分だけ価格を引き上げればよかった。
 第三は,企業が技術的・組織的革新を導入する準備に欠けていることである。危険・不確実性に対する評価が十分でなかったため,企業の時間視野は狭くなり,今期の計画達成を危うくするような技術進歩や新製品開発に対しては消極的にならざるをえない。
 さらに, コルナイが言うように,「ソフトな予算制約」から生じる「不足の経済」も大きな問題である。資本主義経済では,赤字を出した企業は最悪の場合破産することになるが(ハードな予算制約),社会主義企業では,たとえ赤字を出したとしても国家が面倒を見てくれるため,破産することがない(ソフトな予算制約)。このため,企業はできるだけ多くの投資プロジェクトを獲得し,できるだけ多くの投入資源を退蔵し,売れるかどうかは関係なしに生産を行う。結局,利用者が必要とする物はすべて不足している経済ができあがるのである。
 このため, ソ連経済は,まず,遊休資源や過剰労働力を生産過程に追加的に投入していくことにより専ら量的拡大を図っていく外延的成長から,稀少化した労働力や資源の利用効率を高めることにより専ら質的成長を図っていく内包的(集約的)成長への転換に失敗し,1960年代中頃より停滞傾向を示し始めたのである。そして,1980年代には情報化時代への転換に,消費者優先の経済への転換に失敗し,現在の危機的状況に陥ったのである。
 もちろん,停滞傾向を撃ち破ろうとする努力は度々行われており,その中でも1965年のコスイギン改革が有名である。しかし,これまでの改革は不徹底であり,ソ連型集権的計画経済の基本的問題点が解決されることはなかった。

W ペレストロイカの時代

 1985年3月,ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任した頃,ソ連は工業生産の成長鈍化,農業不振による大量の穀物輸入,大幅な食管赤字などの様々な問題をかかえ,そしてなによりも,西側諸国で進みつつあった情報化社会あるいはコンピュータの発達の波に乗り遅れ,偉大な二流国家へと転落しつつあった。
 これらの問題に対処すべくゴルバチョフは「ペレストロイカ(建て直し)」政策にとりかかった。ペレストロイカは,経済だけには限られず,政治,文化,社会,思想などあらゆるソ連社会の局面にかかわるものである。経済のペレストロイカに限れば, これまで述べてきた問題点から,その進むべき方向は明らかであろう。
 第一に,企業に大きな自主決定権を与え,省庁による官僚主義的介入を排除しなければならない。このために,1987年に国家企業法が改正され,自主的に計画を作成する,企業長を自ら選出する,価格を契約により定めるといった大幅な権限が企業に与えられた。また同時に,中央省庁の権限縮小,機構改革が行われている。さらに,個人経済活動の認可,協同組合企業の設立,国有企業の株式企業化,農業の請負化など企業経宮の多様化が進められている。また,この根本には,これまで生産手段はすべて国有であった所有関係を多様化していくという問題があることを忘れてはならない。
 第二に,生産財の配分システムを改め,経済全体を市場化しなければならない。このために,企業間での契約に基づいた生産財の「卸売取引」を採用することが求められている。そして,企業は利潤を求めて競争を行い,競争に負けないための投資と技術革新を行い,競争に負ければ破産により自己責任を取らなければならない。このためには,企業の独立採算制の強化, 自己資金あるいは銀行借入れによる企業投資資金の確保などが確立されなければならない。
 第三に, これまで物の動きの裏としてとらえられ,無視されてきた価格,貨幣,金融.信用のメカニズムを積極的に利用しなければならない。このため,企業に契約価格,自由価格を広範に利用する権利が与えられ,価格の需給調整機能が重視されるようになってきた。さらに,銀行システムが整備され, ゴスバンク(国立銀行)は発券銀行としての役割,貨幣信用機構の中心としての役割に集中するようになり,各種商業銀行が設立され,企業向けのクレジット業務を遂行するようになった。
 そのほか,経済を建て直すためには西側諸国との貿易や経済協力などが必要であり,国家による貿易の独占状態から,今では個別企業が直接貿易できるようになったほか,西側企業との合弁企業の設立も行われるようになっている。しかし,ソ連は巨大な国家で自給自足ができるため,これまで外部世界, とりわけ西側諸国との経済関係が希薄であったため,ソ連通貨(ルーブル)の交換性付与などまだ多くの解決すべき問題点が残されている。
 このようにペレストロイカを素早く押し進め,緊急にソ連経済を建て直していかなければ,ソ連の経済後進性はひどくなるばかりである。しかし,ペレストロイカは簡単には進まないだろう。まず,これまで経済を管理してきた官僚機構がその権力を失うことを恐れ,抵抗するであろう。また,70年間にわたり社会主義経済の中で育ってきた国民は,市場の荒波にもまれるよりも社会主義経済のぬるま湯に浸るほうを選択するかもしれない。そして,グラスノスチ(情報公開)をはじめとする政治,社会のペレストロイカにより連邦構成共和国の独立問題,民族問題などの諸問題が表面化し,モスクフ(クレムリン)という中心を失いつつあるソ連経済はその舵取りを失い,沈没してしまう可能性もないとは言えないのである。いずれにしても,ソ連は社会主義を放棄するとは言っておらず,これまで非常に厳格であった計画経済システムにどれだけ市場を混合できるか,ということがこれからのソ連経済の課題である。