ゼミ生の研究室

● M1の大部屋

M1大部屋 GSICSの全修士1年生には、この大部屋が割り当てられています。留学生等の席も含め約120のブース(机)があります。ここは他研究室のゼミ生との意見交換の場にもなっています。


● M2の部屋

M2小部屋2M2小部屋1 GSICSでは現在、国際学,開発/経済,国際法/開発法学,政治/地域研究の4つの教育プログラムが設けられています。その中で学生は指導教官(所属ゼミ)によって大まかに次の3つのグループに別れています。ひとつめは経済発展システム、貿易・金融・通貨、地域経済、応用計量経済、応用ミクロ/マクロ経済等を主に研究に対象系としている通称"第一専攻"(国際開発政策専攻)。また政治・外交、国際法や制度、人権・ジェンダー・労働、安全保障などの通称"第二専攻"(国際協力政策専攻)。三つ目に地域開発・研究(農村、都市、貧困対策等)、教育(開発教育、教育制度/行政等)、保健衛生(地域医療/保健、疫学、熱帯医療・感染症対策、災害時の緊急医療援助、医療行政等)、環境(都市環境、エコツアリズム等)、開発援助・ガバナンスなどを研究の対象としている通称"第三専攻"(地域協力政策専攻)です(要するに第三は第一と第二以外)。これらのM2生にはそれぞれ約20ブースほどの席がある三つの小部屋が各専攻ごとに割り当てられています。その中で高橋ゼミ生の多くは"第三専攻"の部屋で研究しています(GSICSの教育プログラムについての詳細はGSICSのWeb Siteをご覧ください)。写真は論文提出50日前のみんな必死な状態。

● Dの部屋(博士後期)

D小部屋 博士課程の学生は同時に就業している人が多く、平日の日中には研究室に来ることができない学生も多くいます。また海外を含め仕事や活動、フィールドワークを行っている(らしい)人など、他に居所を持つ学生や休学中の人もいます。ですのでほとんど研究室に来ない人は個人のブースを持っていません。また一人でコツコツと根気よく、自分のタイミングで夜昼平日休日問わず勝手な時間に来ては研究を行う人がほとんどですのですれ違うことも多く、そのためにお互いの研究がなんであるのか「よう解らん」なんて事もあったりします。博士後期は孤独な状態での自分自身との戦いになり、また学生間でもアカデミックな話題ではホンネを云い合うシビアな会話になります。

 なおM2やD部屋に入りきれない学生用に、別棟の校舎にもGSICS学生向けのブースが確保されています。



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 高橋先生の研究室

高橋教授の研究室 高橋教授の部屋はGSICSの5階にあります。

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 講義・ゼミ・海外実習

● アフリカ経済論

アフリカ経済論 今年度の高橋教授のアフリカ経済論の講義は、後期に設定されています。


● M1修士のゼミ(開発運営論演習)

M1ゼミ 前期後期を通して週一回行われます。

 

● 海外実習

海外実習3  高橋先生の引率で、海外実習5 毎年夏期休暇中の2週間ほど東アフリカの数カ国にて実施されています。また現地集合現地解散のため、その前後にほとんどの学生は見聞を広げるために独自のフィールドワークを行っています。



海外実習2海外実習9



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 国際協力研究科(GSICS)

国際協力研究科建物1国際協力研究科建物2 研究科は神戸大学の六甲台にある四角い建物です。まわりには法学部、経済学部、経営学部があります。生協と学生食堂に一番近いという利点もありますが、窓が東西に向いているので眺めは今ひとつでしょうか。


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 神戸大学

● 正門

正門上 石段から正門を望んで。六甲山の中腹にある神大六甲台キャンパスです。このあたりの坂は半端ではありませんので、キャンパス周辺では自転車に乗っている人はめったにみません。



● 六甲台本館(経済・経営学部の学舎)

経済経営本館  古い建造物のために文化庁の登録有形文化財指定されています。GSICSはその西側にある講堂のさらに西にあります。


● 社会科学系図書館

図書館1図書館2 GSICSの学生・教員が一番利用するのがこの図書館です。神大の学生及び教職員以外の利用者はカウンターで受付が必要です(書庫内に立ち入る場合も手続きが必要な場合や注意事項がありますのでカウンターでお尋ねください)。社会科学系図書館は蔵書が多いために四練の建物からなっており、一番古い練も登録有形文化財に指定されています。黒光りの鉄の階段がシブイです。右は一番新しい練の書庫です。


● 震災慰霊碑

震災慰霊碑 震災の慰霊碑は六甲台本館の正面にあります。神戸大学では留学生も含め41名の向学心溢れる学生と教職員が亡くなりました。大学院と云ういくらでも好きなだけ研究ができる環境に私たちはいることを、決して忘れるべきではありません。


● 六甲台キャンパスからの眺め

六甲台からの眺め東六甲台からの眺め南 東側は大阪方面で、梅田の高層ビルや生駒山も見渡せます(写真左)。正面南側は神戸製鋼や六甲アイランドが見え、天気が良いと遠くは関西空港やその連絡橋の橋桁もよく見えます(写真右)。西側はポートアイランド、神戸空港や三宮方面。和田崎の三菱重工神戸造船所もよく見えます。淡路島も大きく見えますが、明石海峡大橋は須磨付近の山に遮られ惜しくも見ることができません。夏は三宮方面の花火もよく見えます(写真下)。

六甲台からの眺め西三宮の花火大会

ときおり聞こえる汽笛の音が、港町神戸を物語っています。

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 おまけ 神戸名物 (ガイドブックにも載って無さそうな名所(迷所?)も勝手に選んでみました)

● 長田区若松公園の鉄人28号

鉄人28号 震災復興のシンボルとして2009年に長田区の新長田駅近くに現れました鉄人28号。伸長は実物大の18mあります(しかし誰もその実物を見た人はいませんが、、、)。 
 それはさておき、鉄人の立っている新長田駅周辺を歩いてみると空き地も多く、また建物も新しく古い住宅などは全くないことにすぐに気がつきます。そのためにここは震災の被害が極めて大きかった場所であることが今でもよく解る場所です。また建物の破壊だけではなく、ここはそれに伴う大火災が発生し多くの尊い人命が失われたところのひとつでもあります。地震に一度破壊され再生しつつあるこの神戸の街を、シンボルとしてこれからも鉄人28号は強い味方となってくれることを祈らずにはいられません。

● イノシシ

イノシシ看板イノシシ 六甲山に住んでいるイノシシは夜な夜なふもとまで降りてきます。出没は阪急線より山側がほとんどですが、ときおり阪急のガードや踏切を潜ってJR線付近まで降りてくる賢い連中もいます(本当に!)。六甲台キャンパス内にもよく出没しますので、夜や早朝に研究に疲れて構内を散歩やジョギングをする場合は十分に気をつけてください。夜に子牛ほどのデカイのが、うり坊と一緒にうろついています。写真はGSICS東出入口前の図書館への坂道で夜間に撮影しました。(この写真は背後から十分な距離と段差をとり、突進されて来ても安全な場所であるのを確認した上で撮影しています。興味本位で近距離からフラッシュを使って撮影することは極めて危険ですのでお止めください。)アフリカのライオンや毒蛇も危険ですが、まずは身近のイノシシにも気をつけましょう。特にうり坊と一緒の母イノシシには絶対に近づかないこと。校内外を問わず絶対に餌付けはしないでください。市内では時々、突進してきたイノシシに跳ね飛ばされたり、咬まれて出血を伴う重傷を負う人がいます。


● すごいぞ神戸の駅!その1 JR新神戸駅

新神戸駅2新神戸駅1  六甲山地を東西にぶち抜いている新幹線のトンネルと、新神戸駅の建設は大変な難工事となりました。この六甲山の大部分は花崗岩(御影石)からなっていますが、山自体は強い圧力による地殻変動で盛り上がってできています。この時に岩盤が破壊されたことによってできた多くの断層があることは、工事前から知られていました。大阪側の六甲トンネルでは一日に3,000tもの湧水があった断層もありました。特に新神戸駅の真下には布引の滝などからの生田川(布引川)が流れていますが、さらにその下には"諏訪山断層"と云うやっかいな断層があります。駅はこの川だけでなく地下の断層も避ける必要があるために、新神戸駅は橋のように作られました(ようするに駅は断層の上を跨いでいる)。また少々断層がずれても対応できるように、駅そのものも水平にも垂直にもずらせるように設計をし直しました(なお阪神淡路の震災時には"諏訪山断層"の浅いところでの変異はなかったとのことです)。ちなみにこの大工事は昭和46年に土木学会技術賞を受賞しています(受賞タイトル;山陽新幹線六甲トンネルの建設-高圧湧水を伴う大断層破さい帯突破工法-、受賞対象者;日本国有鉄道大阪新幹線工事局)。さらにこの駅の下を南北に貫いている道路用の新神戸トンネルも昭和52年に同じ賞を受賞しているのでした。
 この様に極めて厳しい条件をクリアしながらなんとか建設された新神戸駅ですので、"のぞみ"の停車駅では唯一"こだま"などを追い越す待避線がなく、上下2線の本線しかありません。また車両を留置する車庫や引き込み線もありません。そのために朝一番の上りの"のぞみ"の始発は新神戸ではなく、西隣の西明石駅なのです。
 



● すごいぞ神戸の駅!その2 JR六甲道駅

六甲道駅 神大六甲台キャンパスからの最寄りのJR駅は六甲道駅。今は古のNHKの"プロジェクトX"でも取り上げられましたが、高架の駅のコンクリート製橋桁は震災ですべての橋脚が折れたためにほとんど落ちてしまいました。しかし復旧が急がれていたために工事期間の大幅な短縮を目的に、この落下してもほとんどダメージのなかった橋桁を一端ジャッキで持ち上げておき、その間に橋脚を作り直し完成後にまた橋桁を乗せて再利用すると云う前代未聞の工法が取られました。この六甲道駅周辺の復旧工事がJR線の最後の不通区間となり、完成時には電車などよりも圧倒的に重い電気機関車の重連を上下線4線同時に走行させて構造物が歪まないかの試験も行い、異常がないことを確認しています。高架を新造すると復旧には2年はかかると云われていましたが、この工事の結果74日で開通することができました。
 この六甲道駅周辺、特に南側も新しい建物ばかりで古い住宅もほとんど見あたりません。ここも大きな被害を受けたところだったのが解ります。震災直後のJR六甲道駅の写真は ここ ("神戸六甲道通信"サイトへのリンクです)。



● すごいぞ神戸の駅!その3 阪神春日野道駅

春日野道駅 阪神三宮駅から大阪梅田方面へひとつめの駅です。この駅は2004年まで日本一プラットホームの幅が狭い駅としてその名を残しています。阪神線の三宮付近が地下構造になる時には、もともとこの駅自体が廃止される予定でしたが、住民の大反対を受けトンネルが完成した後で駅が作られました。そのためにホームは上下線ですれ違う車両の隙間に「島式ホーム」が無理矢理作られ、その幅は2.6mしかありませんでした(これは電車の幅よりも狭いのだった!)。さらにホームの真ん中には写真のようにトンネルを支えるコンクリートの太い柱が何本もあったり、走り来る電車の風圧もあり危険きわまりない駅でした。ホームにベンチなんぞは危なくて仕方ないのでもちろん設置されず、また金属製の安全柵が設けられ電車が通るときには風で飛ばされないように人はそれにしがみつきました(うそのような本当の話!)。これでも地下駅になってから一度も事故がなかったのだからすごいです。駅は2004年に改築され上下線共に外側へ広い「相対式ホーム」が造られました。旧ホームの安全柵は取り除かれましたが、ホームそのものは点字ブロックや白線そのままに残っているので見ることができます。見ると目が点になります。
 さて、トンネルは壁そのもので構造物を支えていますので、よく考えてみるとトンネルの幅をさらに掘り広げる、と云うのは普通に考えても難しいことが想像できます。ですのでもちろんこの拡張建設も平成17年度に土木学会賞を受賞しています(受賞タイトル;利便性および安全性の抜本的な改善を図った既設地下駅の大規模改造-阪神電鉄本線春日野道駅改造工事-、受賞対象者;阪神電気鉄道(株),鹿島建設(株),中央復建コンサルタンツ(株)) 工事前後の写真はここ 。(表示に時間がかかります)




● 鶴甲山

鶴甲山 六甲台キャンパスからさらに山側にある神大発達科学部とその周辺の鶴甲団地があるところは、もともとは鶴甲山と云う山でした。この山頂は今の団地の約120mも上にありましたが、1960年代にそこを削りに削って住宅用地に造成しました。土砂はトラックで運んでいたのではきりがないので、まず小断面のトンネルをつくり、そこにベルトコンベアーを通して一気に海岸線まで運んでいました。その土砂は摩耶埠頭の埋め立てなどに使われたようです。
 この「山、海へ行く」と云うベルトコンベアを使う工法により、山側の住宅地と海側の埋め立て地を同時にそれも費用を大幅に削減して造成し、さらにその造成した土地を売却し利益を得た上で不足している住宅地も開発できるとして、これは「神戸型開発」と云われました。また新しい土地開発のモデルとしても注目されたようです。鶴甲団地はその先駆けですが、ついこの前まで神戸市須磨区では同様のベルトコンベアーが使われ、神戸空港の埋め立て用の土砂が運ばれていました。鶴甲団地が完成した後はベルトコンベアーもトンネルも廃棄されましたが、キャンパス付近を探すとトンネルの跡が見つかるかもしれません(工学部が一時的にそのトンネル跡の一部をなにかに使っていたらしい)。写真は六甲山側からの鶴甲団地と発達科学部のグランド。なお鶴甲山があったという記念碑は鶴甲会館前にあります。(おまけ 鶴甲団地の北側にある六甲ケーブル駅の直下には新幹線の六甲トンネルが東西に走っています。またこの辺にトンネルを掘ったときの工事用斜坑の出入り口があった模様。さらに六甲山は100年ほど前まで禿げ山でしたが人工的な植樹で今のように緑豊かになりました。)

 震災時のJR六甲道駅を含めた一連の早期復旧の大工事、ダイバーが海中で作業を行うなど超々難工事だった明石海峡大橋の基礎部と橋そのものの建設、神大から下に見える阪神高速道路湾岸線、その奥にあるポートアイランド、神戸高速鉄道のトンネル構造を下から持ち上げたままその下に建設した阪神高速神戸山手線のトンネル、神戸市のベルトコンベヤー関連など、神戸市とこの周辺は非常に多くの難関土木工事がありました。
 校内からは険しい六甲山から一気に海に下ったところに住宅が密集しているのが見て取れます。その隙間に阪急、阪神、JRの三線と大動脈の国道2号線や高速が東西に走り、ヤマの中でも新幹線や地下鉄、道路のトンネルが走り回り、海には長大な吊り橋が架かり、また埋め立てての新しい都市があり、さらに震災によって被害を受けた多くの建造物や交通網、ライフラインなどを短時間で復旧させたと云う街が神戸です。土木学会技術賞が授与されたからすごい、と云うつもりは全くありませんが、校内の眺めの良い場所に立つと密集している建物の中にそれらほとんどの構造物が視野に入りますので、工事のご苦労も解るような気がする、そんなことを考える今日この頃です。



● 六甲の水

六甲の水2六甲の水1 新神戸駅の写真を撮っているときに偶然見ました。このタンクローリーはいわゆる"六甲の水"を汲んでいるところで、でかい蛇口にホースを繋いでいます(多分ボトル詰め用の採水)。場所は新神戸駅の真下の布引の滝へ抜ける道沿いです(写真でトラック真上の建物は駅そのもの)。もちろん生田川から直接くみ上げているのではなく、地下水をパイプで導いてきているようです(ちなみに某有名ブランドの"なんとかのおいしい水"と称する水は、意外にも灘警察署のすぐ北のダイエー脇と神戸市西区の2カ所から採水しているそうな)。
 さて、六甲の水は昔から長期保存しても腐らないことで有名で、幕末のメリケンなどの黒船にも大いに利用されていました(当時の黒船は水を樽詰めにして運び寄港するごとに給水していました。またその船の多くはメリケンの鯨油取り船です)。これはその後に神戸港が海外との交易で発展していったことと大きな関係がありました。また六甲の湧き水を利用した灘の酒造も江戸時代から灘五郷として有名で、今でもここは日本一の酒造業地帯です(日本盛、大関、白鶴、白鹿、沢の鶴、剣菱、富久娘、菊正宗等々)。
 六甲の水と云ってもタンクローリーほどはいりません、と云うあなた。ここはどうでしょう。場所はJR六甲道駅のミスタードーナッツ前の郵便局脇です。ここの駐車場のオーナーのご好意でだれでも利用できます。マイボトルを持った沢山の人が水を汲んでいきます。備え付けのコップで飲むと、まろやかで優しい水が楽しめます。


● 神戸税関とその近辺

神戸税関1神戸税関2  黒船の話がでてきたら、やはりコレでしょう。
 1860年に咸臨丸の艦長としてメリケンに渡り帰国後に軍艦奉行となっていた幕臣の勝海舟が根回しに根回しを重ね、1863年に将軍家茂を摂津海域(神戸港沖)の視察の機会を作りました。勝はその随行時に神戸港の重要性と防備について家茂に説明したところ「大砲を積んであちこち動き回る異国のデカイ黒船が、そう頻繁に来られたんでは日本もたまったものではない、勝、なんとかできぬか」とかなんとか云われたので、勝は「はっ。それにはその黒船そのものを知らなくてはなりません、またその黒船を操る人も造船する人も育てなくてはなりません」などと進言したところ、「よし!勝、やれ。苦しゅうない」となり、幕臣のための海軍操練所が作られました。と同時に勝はさらに諸藩の志士や脱藩している浪人のために神戸海軍塾を私塾としてつくり、当時いっぱしの浪人の龍馬を塾頭としました。ここの塾生には長州藩の後の初代総理大臣の伊藤博文や、和歌山藩を脱藩し維新後は外務大臣となる陸奥宗光、また多くの薩摩藩士などがいました(つまり勝はofficialでは幕臣のための学校の長である上で、さらにprivateの塾をつくり塾生をこのofficialの学校で学ばさせていました。当時すでに幕府を見切っていた勝はこうすることにより、幕臣にも諸藩の志士にも同じ海軍士官となる教育を受けさせる機会をつくりました)。
 『海軍練習所は、今の神戸税関がある所にあった』と勝本人が云っているように(勝海舟著「氷川清話」より)、海軍操練所はJR三ノ宮駅から南の海側に下るところにある現在の神戸税関(写真 左上)から、西側の兵庫県警水上署付近あたりまでの、けっこう広い敷地にありました(写真 右上の記念碑はNTTdocomoビルの脇にあります)。この施設は呉服商の網屋吉兵衛氏が私財を投じて竣工させたもので、水上署脇の公園にある記念碑にはこの人の名も刻まれています(幕府はほとんど資金を出さなかった)。また資金が足りないので龍馬は単なる浪人でありながらも、この時に越前福井藩主の松平春獄公から五千両を借りに行きました(この一介の浪人者が大々名に大金を直接借りる交渉をし成功した、と云うこのことこそが明治維新の始まりだ、とする歴史学者もいます)。
神戸税関3 しかし1964年に発生した禁門の変(過激な長州藩士らが高杉晋作などが止めるのも利かずに京都守護職の会津藩主松平容保の率いる諸藩の兵と戦い、京を大火事にしてしまった事件。長州藩側は大敗し幕府の長州征伐のきっかけとなる。蛤御門の変とも。)に、長州藩の海軍塾生が多数参加していたことから操練所は1965年に"お取りつぶし"となりました。しかし極めて短い期間でしたがここからは幕臣からも志士からも多くの人材が育つきっかけになりました。龍馬はここで学んだ蒸気船操作の技術や異国の情報を元に商社「亀山社中」(後の海援隊)を作ることになります(この辺はあまりに面白く、ここに書くのを止められなくなるんで『竜馬がゆく』と子母澤寛の『勝海舟』でも読んでください)。
 跡地の大部分は阪神高速道などで埋め立てられていますが、写真の様に県警水上署の前はまだ海が残っています。ここで龍馬が「勝先生!神戸の海は土佐、いやメリケン、遠くはあふりーかへの玄関じゃきに。わしゃー、ちと行ってきますがじゃ!」と云ったかどうかは、、、とんと解りません。

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