神戸大学ウィニコット研究会

 

神戸大学ウィニコット研究会

尊敬するウィニコットについて毎月欠かさず行い現在60回以上を誇っています。なかなか参加者が増えず、もともとのメンバー4名に数名が加わった状態ですが、

しっかりと心理療法について学びたい人にはぜひ参加してほしいです。

僕の好きな言葉、「継続は力なり」の真骨頂が、この研究会とバンド活動になりつつあります。もちろんピアノが一番長いです!

8回からいつも僕が研究会の案内を出す時に前回の内容を簡単に要約するようになりました。

ここではその案内の内容を公開し、どんな議論をしたのか、どんな内容なのかを読んでいただければと思います。

 

 

 

 

8回神戸大学ウィニコット研究会

日時、200974日土曜日15001800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『小児医学から精神分析へ』金剛出版第12章『出生記憶、出生外傷、そして不安』(担当和田野)第13章『逆転移の中の苦しみ』

(担当日潟)

内容を元に自由にディスカッションです。

7回の報告:第9章は『躁的防衛』についてでしたが、分裂妄想ポジションから抑うつポジションに移行できない問題は、とにかく深いと思います。一般化しすぎるのも問題ですが、現代都市文化は躁的防衛に満ちているのですね。ある意味カウンセリングルームの中だけで躁的防衛をはずすことができるのかもしれません。真の本能的衝動に身を任せることへの不安、発達促進的環境の不備、躁的防衛の背景にあるとてつもない無慈悲な破壊性や攻撃性と原始的罪悪感の予感、それを解釈されているうちに躁的防衛がゆるみ、強迫的スタイルが現れ、その後にくる無慈悲な攻撃性と、一方で肯定的なイメージの出現。デビッドの事例で、面接室の外での休戦記念日の黙とうとデビッドの空想でのよい母の経験の“偶然の”一致による、瞬間的な万能感の満たされと、同時に万能感の放棄は感動的でした。シャーロットの1回の面接の中の躁的防衛の弱まりと肛門期的なセラピストを汚したい、蹴飛ばしたいという激しい攻撃性の表れと強迫的スタイルの現れ、迫力がありましたね。第10章の『原初の情緒発達』は、移行現象、外的現実と子どもの空想とが瞬間的に出会い、外的と内的が接木される瞬間の話が、なんとなくわかり易く記述されていて勉強になりました。Winnicottにとって、やはり問題は単なる無意識的空想だけではなく、実際の母親や環境からの現実的な世話が大切なのだと思います。これがフロイトとの違いであり、ユングとの違いでもあります。しかし今回ではユングとの近縁性が指摘されました。面白いですね。次回は、その章でほのめかされていた出生時の問題と、いよいよ有名な論文、逆転移におけるクライエントへの憎しみの問題です。みなさん、がんばりましょう!o(*^^*)o~

 

9回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2009829日土曜日15001800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『小児医学から精神分析へ』金剛出版第14章『情緒発達との関連で見た攻撃性』(担当星野)第15章『精神病と子どもの世話』

(担当)

内容を元に自由にディスカッションです。

8回の報告:第12章は『出生記憶、出生外傷、そして不安』についてでしたが、正常な出生は、何の意味も持たないために、非外傷的という表現が至言でした。ただ、出生で遅れたり、酸素が足りなかったりということに対する反応が強制されると、心理的外傷になってしまう。出生をめぐる侵襲に対する反応を強いられることで、胎児=新生児は存在すること、アイデンティティの根源的な問題を抱えてしまう、存在しない子どもとなってしまう。そこに精神病的な根があるのだと言います。特にマーガレット・リトルの『精神病水準の不安と庇護』に描かれた、ウィニコット自身によるリトルの教育分析の内容はすごいです。ウィニコットが大切にしていた大きな壺を粉々に割るリトル、そして次の日には模造品で代用することで壺を復活させるウィニコット、その激しい表現の後で、ウィニコットに手を握ってもらいながら、ふたりの関係の中にけいれんと共に出生するリトル、本当にholdingとは何かについて考えさせられました。Holdingは、メタファーとしての意味と文字通り手を握ってもらい出生する意味とがあるのですね。プレイでは出生遊びは特に自閉の子どもにはよく見られます。自閉に限らず、トランポリン、マット、滑り台、ビニールトンネルを用いた子宮遊び、出産遊びは感動的です。出生を元型として見るか、実際の出生体験の再現と見るかは学派によって違いますが、ウィニコットはどちらにも属するからこそ中間派なのでしょう。ケースで出生にまつわる胎児および新生児の体験に対して目を開くことの必要性と、実際の出生体験とは別に、セラピストークライエント関係への出生を考える必要性のどちらも感じました。第13章は、『逆転移のなかの憎しみ』についてでしたが、精神病水準のクライエントと会っている時に起こる、セラピストの客観的な憎しみ反応について考えさせられました。母子の比喩で言うと、母親は一度は胎児や新生児、乳児を憎むという経験を通り抜けるのかもしれません。それを否認せず、ちゃんと意識して向き合うことの重要性を感じました。赤ちゃんに困らされると、ふと濡れタオルを赤ちゃんの口にかける空想をしてしまう母親も多いと思います。虐待とはそのような空想の不幸な現実化なのでしょう。乳児は無慈悲な愛で母親を困らせ、母親はその流れで乳児を憎み、その憎しみに対して、興奮とか激怒という反応の中で乳児は統合を早熟にも経験する。その後で乳児は初めて母親を憎むという経験を成し遂げる。母親と赤ちゃんとの微視的な経験はすさまじいです。それをあまり意識することもなく、一瞬に経過して健康にすごす母子のすばらしさを改めて感じて、感動してしまう今日この頃です。最近虐待のお母さんに会いたくてたまらない自分を感じます。いとしく感じれたらいいなと思います。乳児との関係はかくもすさまじいのだと思います。クライエントの“無慈悲な愛”に追い詰められ、苦しめられ、クライエントを憎む地点にまで到達し、その憎しみの中を生き残り、クライエントを心から可愛いと愛する瞬間に達するって本当にできるのでしょうか?それにしてもMargaret Littleの教育分析の事例を一度しっかり読みたいですね。その序文に、Winnicottのクライエントは有名人が多く、症例を断片的にしか記載できないために理解しにくいという説明があり、納得しました。ウィニコットの臨床の極意を早くつかみたいものです。『子どもの治療面接』もゆっくり読んでみたいです!=*-*=にこっ♪

 

10回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2009926日土曜日15001800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『小児医学から精神分析へ』金剛出版第16章『移行対象と移行現象』(担当星野・日潟)

内容を元に自由にディスカッションです。

9回の報告:第14章は『情緒発達との関連でみた攻撃性』についてでしたが、クラインが妄想-分裂ポジションと名付けた、初期の前統合状態、思いやりがまだ能力としてない時期の攻撃性から、罪の感覚から思いやりの生じる時期、そして全人格的になる時期へと変遷する情緒発達について、勉強しました。非統合の解体不安の恐ろしさ、だからこそマイナスを外へ投げ出して、プラスを中に取り入れることで、必死で分裂させ、内部をよくさせようとする乳児の努力とたくましさに思いをはせました。特に胎児のおなかを蹴る運動までに共感していくウィニコットの小児科医としてのプライドには感銘を受けました。しかし今回初参加の依田奥様の、双児を妊娠し出産した経験の話は興味深かったです。一卵性双生児なのに、お腹の中での蹴り方に違いがあるのですね。お腹の中で胎児が蹴る運動に対して、攻撃性とは見ないという基本的な思いとは別に、よく動く方の蹴りによって、胃が圧迫されてつらいという発言が、胎児の攻撃性の片鱗を伺わせ、感銘を受けました。乳児が、ほどよい環境に包まれることで、自分の自己という核を作っていく一方で、環境からの侵襲への反応に終始してしまう場合、自己は偽りの自己となり、情緒発達に精神病的な根っこを残してしまう部分の記述は、勉強になりました。自分がないという形で存在するという始まりを始めてしまった幼児のたどる運命、なかなか大変だと思います。そのような乳児期を体験した人への、ニードへの適応を必要としている部分へ、セラピストがどう対応できるのか、重要ですね。そのような“悪”の東映が、お腹に行くのか、頭に行くのかによって、腹痛や下痢、過敏性大腸炎になるのか、頭痛、片頭痛になるのか、悪い対象をどこに見るのかは大切ですね。受け身的な攻撃性の裏にある対象への攻撃性、マゾヒズムの裏にあるサディズム、恐ろしい話ですね。第15章の、『精神病と子どもの世話』は、ウィニコットの図表の理解に役立ちます。特に錯覚と移行対象との関係の健康なあり方、その不健康なあり方、真の自己と偽りの自己との関係は、勉強になりました。境界例クラスのクライエントの理解にすごくつながりますね!スキゾイド状態のクライエントとかかわると、セラピストも病的な世界に居続けることからくる、病みつつある精神の問題、セラピストの精神衛生の問題は、古くて新しい問題だと思います。みなさまも、境界例を“境界例”と見てしまい、境界例を作り出す片棒を担がないように、真摯にクライエントの心に寄り添えればと思います。みなさん、これからもがんばりましょうね!次回は参加者の都合で決めてしまいました(汗)また参加できない人も、第11回以降を楽しみにしてくださいね!(o^^o)

 

11回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20091031日土曜日15301830

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『小児医学から精神分析へ』金剛出版第17章『心とその精神―身体との関係』(担当星野)

内容を元に自由にディスカッションです。

10回の報告:第16章は『移行対象と移行現象』についてでしたが、有名な論文をしっかり読む機会はとても楽しかったです。移行対象を持てるかどうかは、X氏きょうだいのように、心の健康そのものに直結しているのです。だからこそ、母親から子どもの移行対象や移行現象について情報を得るのは必須ですね。X氏は、ウサギを飼いましたが、うさぎは移行対象まではいきませんでした。本当に母親より大切な対象にまでいかなかったのです。そこが移行対象の試金石なのですね!!(o^^o)ノ移行対象は、やわらかな素材か高質な素材かは関係ありません。というより音や声でもいいのですね。おならも移行対象になり得るというのは衝撃的でした!日本人は、母親と一緒に寝ている環境にいるので、母親のほくろやひじ、耳たぶなどの、母親の部分的な対象が、移行対象になりやすいのですね。移行対象がないということは、自分という存在の核がないという経験にひとしくなるのだと思います。そのような一例が、次章の心とその精神―身体との関係で明らかにされます。40代になるまで、偽りの自己として、As if personarityとして過ごした人という概念は、心を打ちます。

自分という存在をまったく感じなくても、40歳まで生きていけるのですね!脳に自分自身があるという概念は、まったく根拠がありません。自分という体験が生じるまでには、頭の破壊が必要なのですね!!次章はとてつもない大切な章になりそうです・・・・ウィニコットの面目躍如ですね。自殺衝動とは、生まれ変わりであると同時に、自殺願望の表れでもあります。存在してないという風に存在するということと、存在しないということで存在するということ・・・パラドックスですね!境界例の人で、自分は今まで存在しなかったし、今まで人を好きになったこともなりと言っていた人がいました。この感覚は難しいけど、大切ですね!在胎期間における記憶・・・本当にそうかどうか、それ自体がパラドックスなのでしょう。神は移行現象です。だからこそ神が存在するやいなやという問題は、解決してはいけない人類史上大切な問題なのでしょう。零的な体験や、大洋感情のような感覚、すべてが、理想か現実か問題にした人は正しくありません。移行現象についてはこれからも考えていきましょうね!!(o^^o)ノ乳児期の舌圧子は、移行対象をめぐっての大切な話題でした!!本当に、錯覚が乳児で生じて、お母さんの存在、自分の存在、父親の存在、きょうだいの存在が試されます。みなさんも移行対象を持っていましたか?現実がおほころび、自分の極端な未分化の世界が、現実に裂け目を生じ、感動を与えてくれる・・・・次回は10月末です!例年より少ないかもしれないんだから、ぜひ日本中の人々が参加してほしい!!(-*) エヘ♪

 

12回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20091128日土曜日15301830

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『小児医学から精神分析へ』金剛出版第18章『正常な情緒発達における抑うつポジション』(担当福井)

内容を元に自由にディスカッションです。

10回の報告:第17章は『心とその精神―身体との関係』についてでしたが、乳児期の0か月から3か月までの100%の母親の没頭による適応が必要な時期に、適応が得られず侵襲を受け、早すぎる心の機能を働かせざるを得ず、偽りの自己を発達させてしまった47歳の女性の事例はとても感銘を受けるものでした。人間は基本的には身体を持つ存在です。いつから精神が現れるかわかりませんが、今日も子育て真っ最中の依田夫妻がいてくれたおかげで、興味深い話を聞くことができました。赤ちゃんという存在は、3か月くらいまではまったくの非統合の、とんでもない存在なのですね。とにかく母親がもっぱら生理的な欲求を感じ取り、100%適応してあげないといけない未熟な存在としての赤ちゃん、それが、3,4か月くらいすると、おっぱいをあげたりおしめを取り換えてあげると、反射でない笑顔で応えてくれる、その人間としての喜びを与えてくれるという意味で、赤ちゃんの精神の存在がみんなで共有できました。ウィニコットの言う、psyche-somaという心身相関的な実体から、どうやって精神が生じるのか、わからないところもありますが、母親の献身的な世話からの環境側の供給と、赤ちゃんの本能的な部分とが、統合をもたらすものとして別個に機能しつつ、それが合わさったところに、個体としての統合された精神が現れるということは、わかったように思えました。そして5か月に到達すると、幼児は、手につかんだものを口に含むだけではなく、それをぽいと投げて母親に拾ってもらうという、いないいないばあの原型が現れ始める。そこに私有化(personalization)と時空の感覚の元が得られる。そしてその結果表れる移行対象によって、母親は“ほどよい母親”となり、きちんと適応の失敗という機会を赤ちゃんに与えて、赤ちゃんは移行対象を用いることで自分自らがほどよい母親となり、母親の失敗を埋め合わせるまでに成長するのですね。ところが、生後3か月までの早すぎる失敗により作られた偽りの自己は、本能の活動を伴わない母性的な働きという心の機能を働かせてしまう、その結果、他者から見れば世間とよい関係を持ち、生計を立て、高い教育水準を達成し、皆から好かれる偽りの自己の人を作り出してしまう。そのような女性が、以前の普通の精神分析では核となる問題に変化をもたらすことができなかったにもかかわらず、ウィニコットとの間で深い深い退行を経験し、胎児にまでさかのぼり、出産外傷に至った時の、参道を通過するときの頭の締めつけにより、頭を破壊してしまいたいという強い衝動を経験するのは圧巻でした。それが行動化されれば自殺に至る深い危機を経験し、彼女は、ウィニコットとの間で、まるで胎児のように頭をウィニコットに抱いてもらい、精神分析なのに「知らないでいること(not-knowing)」という経験をすることで、ウィニコットにholdingされ、偽りの自己を消滅させ、産まれ直しを通して真の自己を形成していくプロセスは、すごかったです。この事例は何度読んでもいいと思います。さて、次回は、ウィニコットのスーパーバイザーのクラインの抑うつポジションに関する論文です。また一緒に勉強しましょうね!(o^^o)ノなお、時間帯はみなさんの都合を考えて30分ずらして3時半にしました。もし希望があれば、もう少しずらすことも考えます。ご意見が

あれば吉田まで!

 

13回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20091219日土曜日15001800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『小児医学から精神分析へ』金剛出版第19章『精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面』(担当福井)内容を元に自由にディスカッションです。

10回の報告:第18章は『正常な情緒発達における抑うつポジション』についてでしたが、はっきり言ってとても感銘を受けました。抑うつポジションとは、生後5か月から12か月くらいまでの間で達成される心のプロセスのことです。まず意外だったのは、抑うつポジションとは言うものの、心の健康な発達の中では抑うつを経験することはないという知見です。僕らは、良い母と悪い母とが同じ人物であるという事態に直面して、幼児は抑うつ的になると理解していました。そうではないのですね。健康な幼児はちゃんと悲哀や悲しみを感じるのですね。その点がよくわかりました。ウィニコットは抑うつポジションに対して、“思いやりの段階”という概念がよりふさわしいとしています。それはこの点から来るそうです。もちろん、ちゃんと健康に経験できないと抑うつにはなるので、抑うつポジションという概念の有用性も、バイザーとしてのクラインへの配慮かもしれませんが、説明しています。でも、僕が一番感銘を受けたのが、抑うつポジションを乗り越えていなければ、普通の共感的なカウンセリングが通用しないという点です。目からうろこでした。幼児は、静かな面持ちのなかで経験される良い母親及び良い乳房と、自分の本能的な部分が動いた時の襲撃の対象となる対象としての悪い乳房、悪い母親とを別々に経験します。そして本能衝動のままに母親を無慈悲に攻撃するのですが、ここには全く罪の意識はありません。ところが、本能衝動のままに乳房を飲み干すと、乳房、あるいは母親に“穴”を経験します。これがすごいのです。この対象にぽっかり空いた“穴”に対して直接もつ罪悪感を、まさに真の罪の意識の芽生えだと言います。そしてその“穴”を開けてしまったということに耐えることができるようになると、それを埋め合わせようとする幼児の心の動きが生じます。しかしそれはすぐは生じません。“時間”が必要なのです。消化に時間が必要なのと同じ意味で、“穴”に耐え、穴を修復しようと思えるようになるためには時間が必要なのです。その間母親=治療者は環境として忠実にチューニングして幼児の要求に適応し続けなければなりません。そしてまさに幼児がその乳房=母親に空いた、あるいは幼児が開けてしまった“穴”を埋め合わせようと、修復しようと、償おうとした瞬間に、母親はそれに気づき、それをきちんと受け取ります。その瞬間に幼児は自分が母親に「与える」ことができる存在だと実感できるようになるのです。ここに心底から感動を覚えました。これを経験できないと、自分の中身に悪いものを感じ、自分自身ただひたすら本能的に母親を飲み干し、喰い尽し、悪さしかしない人間として存在し続けるしかなくなります。この大切な瞬間に気づくことが、母親、治療者に求められているin time、間に合うという感覚なのだそうです。普通に共感でカウンセリングが進まない、深まらないクライエントに対しては、この考えを持ってみてはいかがでしょうか?みなさんも一緒に味わいましょうね。いよいよ『小児医学から精神分析へ』もあと1回で終わる予定です。次回の1219日は、年内最後でもあるので、参加する人はできれば忘年会の心づもりもしてきてください。六甲道で平成21年の垢を落として帰りましょう!(o^^o)ノ次の書籍はまだ検討中です。ご意見があれば返信してくださいね!

 

14回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2010123日土曜日15001800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版マイケル・カーンによる序章、いよいよ新しい本、「抱えることと解釈」に突入します。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読みましょう。内容を元に自由にディスカッションです。

13回の報告:第19章『精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面』は、退行についてでした。退行にはいろいろありますが、ここでは抑うつポジションを経ていない退行、胎児や出産をめぐる水準に至るまでの退行が例に挙げられています。数章前の47歳の女性のすさまじい事例を、退行という視点で考察しています。

ある水準より以前だと、分析の解釈がミルクとしての役割や、毒としての役割を持ってしまいます。そのような場合は、セラピストが抱える環境になることによって、クライエントの中にある様々な無慈悲な攻撃性や胎児・乳児的な妄想・分裂的な内容をHoldingすることによって、クライエントの中の胎児・乳児が心底から自然な罪悪感とそれに伴う思いやりが生じるところまでもっていく必要があります。この抱きしめる感覚、その47歳のクライエントでは、実際に出産の頭痛に苦しむ間、ウィニコットが頭を抱きかかえてあげるのですが、その感覚が大切ですね。この内容を、次の『抱えることと解釈』では、具体的に見ていけたらと思います。みなさんがんばりましょう!

 

15回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2010220日土曜日15301830

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過1月分(日潟担当)と2月分(岡村担当)

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読みましょう。内容を元に自由にディスカッションです。

14回の報告:カーンの序章をみんなで検討しました。

まず感じたのが、カーンの引用したウィニコットの論文を全部すでに研究会で読んだということに深く感動しました。継続は力なりといいますが、カーンが引用しているクライエントたちがほとんど記憶があり、あのクライエントだってそれなりに思い出します。ここまで来たんだなって、まるで富士山の5合目に到達したような気持ちかな?まだウィニコット山に関しては1合目くらいかもしれませんが(笑)退屈することに関する議論も面白かったです。逆にプレイであれ面接であれ、退屈してない状態の面接は、クライエントもセラピストも生き生きとしていてライブ感覚に満ち、新しい内容の発見に心がとても活発になっています。退屈させるようなクライエントの場合、そこには反社会的な傾向の要素があるのですね。だからこそセラピストークライエント関係の水準では、とても意味のある現象が徴候として現れ始めていると気づくことが大切だと思います。躁的で防衛をもう一度見直さないといけないなと思いました。それは単なる欝に対する防衛というだけではなく、とても深い不安がその裏に存在していること、その不安に対して人はそわそわとした落ち着きのなさを示すということ、抑うつ段階の真っただ中にいるということ、抑うつ段階を乗り越えれば、人ときちんと自己―他者関係を結ぶ能力を持ちつつかかわれるということ、すなわちエディプス段階に入るということ、嫉妬を取り扱うことができるということ、それらの復習ができたような気がします。ウィニコットは、抑うつ段階に達していないクライエントに対しては、精神分析をするということが侵襲として働く可能性もあること、その時はクライエントのニーズにしっかり適応する発達促進的な母親の対応が必要なことを述べているといいます。まさにウィニコットという感じですね。しかしメンバーの一人からは、ウィニコットへの批判が論じられており、ウィニコットはクライエントとの肯定的な関係を重視しすぎるあまり、陰性転移の分析を怠る傾向があること、その意味で分析が不十分な点を残し、のちの不適応につながる可能性があるという可能性も考えなければならないのかもしれません。カーンに対する誹謗中傷のようなものも流れているようですし、もし皆さんの中でカーンについての悪い噂をご存じの方はぜひお知らせください。僕らもウィニコットの信奉者になってはいけないのかもしれません。また以前読んだ「母親の抑うつに対して組織される防衛としての償い」という論文に書かれていた「偽りの償い」という概念は、ウィニコット理解について決定的に重要だということも再認識できました。またみなさんもこの論文を何度も読み直しましょう!!出生外傷の論文も最重要ですね。これも何度も読み直しましょう。これからは面接記録を読んでいきますが、随時今までの論文の読み直しもしていきましょう。そうして理解を深めていけたらと思っています。継続は力なり、理解できなくてわからなくてつらくても、ずっと読み続けていきましょう。クライエントの話がどんなに理解できずつらくても、僕らは決してあきらめずに話を聴き続ける存在であり続けなければなりません。きっとウィニコットの論文もそういう対象なのでしょう。彼は、僕らがウィニコットから自立して自分なりに理論を発見できるように、わざと言葉足らずに論文を書いたといいます。それが成長促進的に働くためには、僕らが彼の挑発に応えなければなりませんから!o(*^^*)o~

 

16回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201043日土曜日15301800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過210日面接〜223日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読みましょう。内容を元に自由にディスカッションです。

15回の報告:面接の11回の細かい患者と分析者の会話の記録をひとつひとつ追っていくこと。とても大切な2時間半でした。しかもとても濃密な・・・最初から患者の「咳き込み続けていること以外、何も報告することはない」という発言の意味から始まり、その普通の咳を結核ではないかと疑う患者、それを治療の中断への恐れと解釈する分析者、そしてすぐさまそれに反応して、肺結核から肺癌への不安へと表現を深める患者、そしてそれを部分的自殺願望の表れと解釈する分析者、丁々発止の会話のやりとりひとつひとつが、生き生きとしており、まさに一触即発、その時その時の意味のやりとりをめぐる生き生きとした感情の展開、初回の面接からとても難解であるとともにとてもスリリングでした。今の彼と健康との間に自殺があるということの共有が、肺癌への恐れという小さなエピソードからしっかり展開することへの驚異を感じました。そして“間”が持つ意味も深そうでした。間の後の遅刻に関する話題、その意味を面接より仕事が重要になってきたとコメントする患者、それを自殺にまつわる罪悪感と解釈するウィニコット・・・そして患者と分析者との間に依存関係が深まってきていることの確認、このように1回の面接の中で、どれだけの起承転結の揺らぎが起こっているのか、そしてその揺らぎをどうやってセラピストが感知し、それをクライエントとの会話の中に盛り込んでいき、二人の間でどのように感情を含めて共有していくのかということを、深く考えさせられる時間が持てました。その次の週の面接のまとめから、ガールフレンドとのセックスが、気持ちを込めてセックスをすることができなかったという話から、転移関係の中でガールフレンドがあらわしているものは何かをふたりで考えていくうちに、最初の解釈、ガールフレンドは彼自身を表しているという解釈がうわすべりして、その次のガールフレンドが分析者を表すという解釈がふたりの間でしっくりする中で、ウィニコットが母性的な環境として体験され始めたことが強くふたりの間で意識され、患者の「あなたはそれに耐えれますか?」という質問、それに続く親指しゃぶりの出現の部分では鳥肌が立ちました。面接場面で無意識に親指を吸い、深い退行を経験しつつ、失敗経験の修正体験が起こっているのです。次のドアベルの故障が、環境側の失敗として体験され、面接の中で引きこもり状態に達するのですが、それもふたりの間で空想を共有することができました。環境側の失敗に対していかに自分が消極性の中に逃げ込んでしまうかを話す中で、カニバリズムの話から、口唇愛的な食べるということをめぐる衝動が動き始めます。その次の回での、まさに前回の失敗をなかったことにする軽躁状態、そして衝動が動き、興奮が起こった瞬間が一番危険であり、その興奮を見失い、奪われ、台無しにされる危険をしゃべることができます。Bagという言葉が、盗むという意味とだいなしにするという多義性を持つことがとてもすごかったです。解釈ではなく適切な言葉を用いることの豊かさを感じました。マスターベーション的な関係から対象関係へ心を開いていくことへの危険性ですね。また次回が楽しみです!o(*^^*)o~

 

17回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2010515日土曜日15301800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過222日面接〜31日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読みましょう。内容を元に自由にディスカッションです。

16回の報告:面接の210日から18日面接までの流れです。シゾイドの患者さんですが、前回では、親指しゃぶりから口唇愛、カニバリズムが出現し、セラピストが耐えられるかどうかという問題、赤ちゃんに返って口唇的攻撃が高まると環境が受け止め損なう危険も生じること、興奮自体の危険性、興奮が奪われてしまうと取り返しがつかないことなどがその場その場での体験と関係づけられて話し合われていました。引き続き、クライエントは興奮して面接に現れます。きちんと将来や現在するべきことを考え成し遂げていくということは興奮は必要ありません。しかし内的な成長もないのです。赤ちゃんの喃語のようなprattleくちゃくちゃしゃべりができる経験の大切さと、危険さの中でクライエントは揺れ続けます。現在も将来も望みがない中で生きてきたクライエントは、望みを感じ始めるのですが、怖くてたまりません。自分の中のサディスティックでカニバリスティックな攻撃性をなかなか認められないクライエントと、ほのめかすウィニコット、そこで行きすぎの危険性と、ごちゃごちゃな自分の中の混乱を意識し始め、父親とウィニコットを象徴する厳しい医師や外科医に誉めてほしい気持ちの中にある、ウィニコットに「うまく分析が進んでいるね」と誉めてほしい気持ち、しかし次第に現れるサディズム、医師は常に守られ距離をクライエントと取り傷つきから守られていることへの不信といら立ち、そして“分析に行かない”というセラピストを不快にさせる手段の話、ようするにクライエントはセラピストに自分とまったく同じ興奮を味わってほしい、自分を医師の隠れ身で守らずさらけ出し興奮し合ってほしいという深い要求をはっきり現し、ウィニコットはそれに対し、なんと中立性を少し崩して興奮していることを認めつつ、あなたほどではないと絶妙な距離感を示します。この辺りは僕らの面接でも勉強になりますね。すさまじい内的な経験が起こっているが、表面はさざ波のような不思議な流れです。次の回の「何も話すことがない」という抵抗、その後の「満足することは、対象を絶滅させてしまうことだ」という乳児期の対象関係論の解釈は、確かにミルクを飲みほしてしまうといったん乳房は縮んでしまうという現実と合わせて、他者を自分の欲望にさらしてしまうと、他者は絶滅してしまうという体験として、もはやセラピストは語りの相手としての意味を失ってしまっていたということになり、これは深いと思いました。だから彼はガールフレンドと最高の幸せを経験した瞬間に、ガールフレンドは意味を失ってしまうということを繰り返していたのであり、それがまさにウィニコットとの関係の中で繰り返されているのです。「今日は何も浮かびません。話すことがありません。」という発言は、ときどきクライエントが述べますが、その前回の興奮の存在に気づくと理解が深まるかもしれません。スキゾイドschizoidとサイクロイドcycloidの違い、子どもがお母さんのコートのボタンを引きちぎった時、ボタンを引きちぎったことで満足を体験しボタンへの興味すら失うschizoidと、ボタンへの愛着を示しつつ、ボタンを引きちぎられたコートに心を痛めるcycloidの違いとして説明されて、心底から理解することができました。イメージのもつ力は偉大です。もうこれ以上書ききれないほど勉強になりました。また次回が楽しみですo(*^^*)o~

 

18回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2010612日土曜日15301800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過38日面接〜310日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。内容を元に自由にディスカッションです。

17回の報告:222日〜31日の面接経過です。222日は情動性の排尿過多症の話から入ります。クライエントの空想で、抵抗としてウィニコットの価値下げを行っている。精神分析を価値下げするために、心因性と呼ばれる障害の多くは、実際は器質的な背景があり、精神分析はそれを無視して、あえて長期間かかる治療に引っ張り込んでいるだけであるという批判を痛烈に行っている。精神分析に対する世間的な批判をクライエントが上手に利用することを示している。そしてその抵抗の側面はクライエントの眠気という形をとる。そして医師である自分のこととして、ある患者に特に変化が見られない場合に、すぐに次の患者に移るということを通して、自分がウィニコットに、”興味が湧かない厄介な患者である“と見られているのではないかという疑いを表現している。クライエントは自分の中の欲動が激しくなればなるほど、自分がセラピストにとって厄介な患者とみなされるのではないかという強い不安を持つ。その時にウィニコットは、セラピストがクライエントをおろそかにしているということを取り上げ、面接と面接の間にセラピストがクライエントをおろそかにしているのではないかというクライエントの疑いを解釈している。その後でクライエントは「今日は簡単に出てくるものなど何もありませんよ」と、強く面接に抵抗する。そしてウィニコットは、クライエントが迅速な治療がいいと述べたことに対して、無意識に反応して解釈をしすぎてしゃべりすぎている自分を意識している。この展開は、僕らセラピストの典型的な体験のひとつではないでしょうか?心に深く染みました。次の回にクライエントは20分遅刻してきます。次の23日の面接で取り上げられた夢は、クライエントの偽りの自己である部分と共謀する不倫のガールフレンドが夢に出てきて、現実の彼女とは異なり、博士号や高い地位を軽々と得る女性となっている。このクライエントにとって、ペニスをだれが持っているのかという問いがとても大切であり、今のところ誰もペニスを持っていないという事実が問題にされる。65ページで、「まるで彼女たちの頭は、あなたにとっては斬って落とされているようなものですね」という発言はクライエントの心を打ちます。そして彼は思春期の頃の“ペニスを持った女性”に関する夢を思い出します。これがかなり決定的な展開になります。この時に、ウィニコットはなんと10分間面接を延長しています。リアルな流れですね。224日は、逆にセラピストがクライエントを10分待たせます!!クライエントはますます面接の終わりについての話をします。クライエントの抵抗はさらに強まり、彼は面接の終了・中断をほのめかします。彼は自分がこれから面接で体験することが怖いのです。しかし、20歳の頃のウィニコットの面接の中断の際に、ウィニコットの心の中にずっと自分がいたということを知ったことへの感動が述べられ、ウィニコットさえクライエントに寄りかからなければ、ウィニコットを信用できるかもしれないという、抵抗とは逆の気持ちも解釈します。そして抵抗の部分、面接を終わりにしたいという心の動きを、それでは“ペニスを持った女性”という大切な問題から逃げ出してしまうと指摘して直面化します。ここはとても緊張が高まり、セラピストとクライエントとの間の我と汝の関係が深まっているのを感じます。すごいですね!そして、幼児期に彼の母親が不安が強くて、クライエントの子育てに完璧であらなければならないとしすぎて、“ほどよい母親”になることを失敗したことと関連付けます。そのことはクライエントに「愛し、愛されることについての望みのなさ」をもたらしたのです。とても強くインパクトのある表現です。この時期は抵抗が強まる時期ですが、抵抗が強まる時期とは、まさに不安がますます強くなり、ますます退行が進んでいるからこそなのです。それがよくわかりますね。31日の、リアルであることをめぐる議論はすごいです。そして、もっとも本質的なこと、彼の軟弱さは、奥さんへの恐れを表していること、それは“お腹が空いていないのに食べること”、軟弱さとは見捨てられる危険を冒さないということの理解に到達します。やはり人間はお腹が空いてから食べなければ、食欲の基本的なものを失ってしまうのですね。よくわかりました。そしてそれは帰っていくべきat homeのなさに関連しています。しっかりつかまえてもらえることこそ、holdingな環境の特質なんです。引きこもりから抜け出る時の、媒体=エーテル、宇宙空間を満たしている母胎の問題に近づいていきます。抑うつ段階の本質へと近づいていきます。母親に抱えてもらうということの意味ですね。次回が楽しみですo(*^^*)o~

 

19回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2010710日土曜日15301800

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過310日面接〜318日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。内容を元に自由にディスカッションです。

18回の報告:34日〜38日の面接経過です。3月1日の面接で達成した妻への恐怖、お腹が空いていないのに食べることから抱えてもらえる経験の不足にもう一度心から感覚的に立ち返った経験から、まだ抵抗を示しつつ、ウィニコットは一度つかんだひもを放さずひき続けているような、綱引きの感覚が面接を通して続いていきます。34日も、「何もない」という発言から始まり、金曜日は、土日に手放される感覚から困難を感じるという話、ガールフレンドと会うという話から、前回の妻への恐怖、妻との関係の中で体験される本当の自分が揺さぶられる経験とその結果の現実の破たん、そしてガールフレンドと付き合うことによる偽りの自分の再構築と安定は、本当の自分と偽りの自分を妻とガールフレンドとに解離させることでのかりそめの安定だった、それが解離の解消が起こり、患者の中で真に葛藤が起こり心底しんどくなってきています。そのことでウィニコットに不快を与えたいという流れで面接をキャンセルしたくなり、しかし患者は踏みとどまり、キャンセルしたくなったという気持ちを伝えに面接にやってきます。しかしその指摘に対してやる気のなさを示し、そしてウィニコットの解釈中に眠ってしまうというacting-inをします。すごいですね、「来ないということで来ることをリアルにする」逆説、そしてガールフレンドとの関係の中で、男性であることへの欠落感をごまかせるという事実、妻は自分が男性としてふるまえない現実を突きつける存在、ガールフレンドは幻想の中で男性らしくいられる関係、しかしガールフレンドとはお互いのほんとうの自分をまったく見ない偽りの関係、このあたりの理解で揺れます。38日には、また「何も出てこない」と言いつつ、妻に夜無意識に腕をかけ、目が覚めると狂ったように怒っている妻を目にする、しかし次に抱きついてくる妻に戸惑う患者、そしてガールフレンドが「赤ちゃんがほしい」と言ってくることに、何の不安や心外や戸惑いも示さず、受け入れているかのように振る舞う患者に、ウィニコットは、ペニスを持たない存在としてのガールフレンドとペニスを持った女性としての妻ともっていきます。するといきなり患者はウィニコットに「あなたは私にとってどういう存在なのか?」と突きつけてくるのに対し、ウィニコットは「自分は女の子であり、ペニスをもっていたりもっていなかったりする」と発言します。そしてガールフレンドが子どもをほしがるのは、ガールフレンドの中での自己愛を完結する行為であり、それがまた患者の自己愛を満たすことにもつながっている、しかしそれは現実とは全く別物であるとウィニコットは指摘していきます。そして、愛人が妊娠するということを、反倫理的な行為として面白がる無邪気さへと話は進み、偽りの自分からほんとうの自分を感じる直前に、反社会行為の中に生き生きとしたリアルなものを感じる瞬間を位置づけます。そして姉たちがペニスを持っていないということを心に納めることが彼にはできなかったこと、どれだけの不安を感じたかということ、そしてペニスを持っていないということを否認して、指しゃぶりに没頭していった経緯を共有しようとします。指がよってたつ場所の代理として働いていたから、11歳まで指しゃぶりをしていたというのです。39日には、なんと妻の彼氏が死にかけるという話から、妻の悲しみ、そこからまったく解離させてしまっている彼自身の悲嘆の感情griefに近づけようとウィニコットはします。亡くなった父への悲嘆です。そして問題なのは「自分はだれなのか?」という問いだという話から、母親に誉めてほしいという感情にぶつかります。かなり倒錯的な、幼児的なことなのに大人の言葉を用いて変なことを想起しますが、ウィニコットはそれをちゃんと肛門期の問題へと導きます。それに対しては患者は、おいしいものを食べる時、食べたらなくなっちゃうということから食べたくない気持ちを取り上げます。ますます会話は混迷の中の一筋の、あるいはふた筋の光に導かれます。最後まで頑張りましょうね!o(*^^*)o~

 

20回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2010918日土曜日15301830

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過322日面接〜324日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。内容を元に自由にディスカッションです。

19回の報告:まず僕の抱えているケースの報告と意見をいただきました。本当にありがとうございます。なかなか僕もかなり揺さぶられる、今一番力を入れているケースなので、いつもみんなに話を聴いてもらい助かっています。310日〜318日の面接経過です。39日ではさらにペニスを持った女性のイメージについて話し合いました。そしてクライエントは自分が男であることを発見し始めているということを確認します。310日は、最近はいつも最初に話すことはないと始めるが、さらに不安が高まると眠るというアクティングインも続いています。クライエントは自分がウィニコットに困難をもたらしているといいつつ、詳細な記録を取ることをウィニコットに迫ります。しかしウィニコットはその挑発にのることなく、記録をとらないようにしながら、自分の役割はクライエントの言ったこと、起こったことすべてを聴いて理解することであるとしっかり伝えます。ペニスを持った女性についてまたウィニコットが話し始めると眠り始めるクライエント、そして自分がだれの力も借りずに治療した患者の話を誇らしげに話し始めます。それをウィニコットは、分析家にも自分と同じように優れた技術、あるいは離れ業を発揮して自分を治して見せるようにプレッシャーをかけます。そこでウィニコットは非分析的な発言をし、その発言によってクライエントははっきりと目覚め、ウィニコットにその発言によって憤慨したことを伝えます。続いて314日は、クライエントは遅刻をして、しかも面接の後に歯医者の予約を入れてすぐに帰ることにしています。そして面接の中では、ガールフレンドが初めて遅れてきたことに腹をたて、今まで彼の思い通りにすべて従順にしてくれていたガールフレンドが変化をしてきたことを話し合います。その女性との関係の中でインポテンツになるのですが、それは彼女との関係が自己愛的なものからちゃんとした対象関係へと変化したことを表しているのです。全体対象との関係が生じると本能的満足に禁止が伴うようになるのです。すごい解釈ですね!そしてその怒りや憤慨から、クライエントはウィニコットを不能へと陥れます。「話しても無駄になる」とウィニコットの解釈を無力化させていく。315日、再び前回の面接を思い出せないクライエント、意識的には分析家に協力していると強調するクライエント、そして妻の話題、妻が自分に応答してくれないことによるうつ、妻のボーイフレンドの病状が意外によかったことで再びさらにうつ、前回と同様に離れ業で自分をなんとかしろという雰囲気にウィニコットは乗らずに、「私は今自分が言うことがない」と強弁するウィニコット、すごいインタープレイが生じています。彼が仕事の面ではかなり改善し、他人と競争できるようになったことを確認する。そしてまたペニスをもった女性の話で眠るクライエント、前日の歯科医をかなり象徴的に、噛むこと、クライエントの人食いの衝動や考えを罰しようとする存在として歯を抜くと解釈する。318日は、面接の責任を負うことがしんどいと話すクライエントの気持ちを解釈するだけでなく、「わかりました」と一部認めてあげるウィニコット、印象的ですね。そして何か話すことを選ぶということが不安や抵抗の一部であるという話がついに出てくる。いつも話が最初浮かばないのはこの抵抗だったのです。そしてボタンを数えるという些細な考えから、連想を聴いていき、前回の歯科医の話からクライエントの中の人食い衝動、そして、ボタンを食いちぎってしまいたいという欲求から、ボタンを数えることは、ひとつには自分がボタンを食いちぎっていないかどうかを確認するため、もうひとつは、もう食いちぎってお腹の中にあるボタンを数えるということのどちらかであろうと解釈する。そしてクライエント自身の連想で、ボタンはおへそ、そして乳首という話が出て、そこから生後間もなくの乳児、乳首がふたつと認識する前の乳児、そこまで退行していくクライエント、その体験をどんどん言葉にするウィニコット、それについていくクライエント、時には正直に「それにはついていけません」と根を上げるクライエント、深い話をしているふたりがすごいです。そして早期エディプスの問題が展開していきます。まだ乳首がひとつが2回分と数えていたころに父親が介入して母親にとって代わってしまうと、母親から去勢する父親の役割を、母親自身が演じなければならなくなる。それがおそらくはペニスをもった女性なのでしょう。奪われるのも乳首や乳房をもつ母親=父親であり、奪うのもペニスを持った母親、だからこそクライエントは自分の乳房=母親を守るために、母親を口のようなマミーと呼ぶことを避ける。そうすることで、乳房とともに口まで失うことから守るためである。しかしそれによって母親は十分な乳房=口の交流を意味する性質を汚されてしまう。これが彼の深い問題だったのです。ここでも彼は眠ります。そして、ウィニコットに話をしないことによって、自分の考えていることを言わないことによって、ウィニコットを懲らしめたいという衝動をついに言葉にします。この乳房=口を失う恐怖から逃れるために、彼はってしまうことで口と乳房の親密さを避けました。だからこそもっとのちに父親を利用することができず、男性になることを不能にしたのです。深い話ですね(*/∇\*)キャいよいよ佳境に近付いているようです・・・最後まで頑張りましょうo(*^^*)o~

 

21回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20101120日土曜日15301830

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過329日面接〜45日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。内容を元に自由にディスカッションです。

20回の報告:またまた僕の抱えているケースの報告と意見をいただきました。本当にありがとうございます。あのあとまた僕のちょっとしたミスに噛みつかれ、先生と関わると死にたくなる、私を見捨ててほしいという展開が見られ、もう面接に二度と行かないという発言から、じっくり話した結果、その発言は僕を試していること、僕はいつもその試しにひっかかり、ますますクライエントを見捨てたことになり、死にたくなる気持ちを僕が増強していることがわかりました。また報告したいと思います。322日妻とガールフレンドとの三角関係において、妻がガールフレンドにい嫉妬して電話を不機嫌に切ったことに対して、最初は分裂妄想ポジションのナルシスティックな憤怒で反応したクライエントでしたが、実はその憤怒の興奮の裏に、妻を傷つけてしまったという抑うつポジションの抑うつが含まれていることが後でわかります。そしてあれだけ妻とガールフレンドをそつなく永遠にこなしてきた関係が動き、確実にエディプスの三角関係の動きを見せ始めます。そして抑うつを感じてから、まさに妻との関係の中に希望を見出すのです。やはり希望は、分裂妄想ポジションの中にではなく、抑うつポジションの中にあるのですね。ウィニコットとの分析に妻が嫉妬していたということが、今は妻がガールフレンドに嫉妬しているということに移ります。そこには男性が入ってこない三角関係ということで、彼の父親が父親として男性になることに失敗し、ペニスを持つことができなかった問題をさりげなく触れると、クライエントは、実は今までガールフレンドの彼氏たちに嫉妬したことはないのに、今ガールフレンドの彼氏の一人に怒り、憎しみを抱いているという展開を話します。そして妻との性的な関係の不満足が変わらないという不満を話して終わります。323日は、最初その妻とのセックスの不完全さについて語りだし、今まで完全に解離させていた妻とガールフレンドとの関係を、自分がふたりの心を傷つけることへの恐れを語ります。そしてウィニコットの発言、ひとりの女性があなたを愛し、そしてあなたによって傷つけられるということはあなたに価値がありますね、ということで、抑うつ段階へとしっかり根付き始めます。この時点で、前回の妻の電話を切った行動が、妻が傷ついたことへの不安へとしっかり話が移ります。そして、彼が複数の女性と関係をもつしかなかったのは、誰かを選んだら誰かが傷つくという状態を避けたかった、彼がちょっとした喪失にも耐えることができない人だったという理解へとつながります。そして前々回の話をすっかり忘れてしまっているクライエントにウィニコットは思い起こさせます。そしてついに彼はガールフレンドの彼氏を殴りたいという気持ちをはっきりと述べます。そしてそれをセラピストへの陰性転移と解釈するウィニコット、ここはすごいですね。セラピストを憎み、殴りたい、殺したいという強いネガティブな感情、これは僕のケースでも起こっています。かれはついに男性と女性との三角関係へと参入したのです。男性と競争する力を得たのです。324日は、ついに妻に本心をぶつけるという勝負について話が展開します。その準備ができていないというクライエントに、その勝負のためにセラピストにしっかりしてほしいと解釈するウィニコット、すごいインタープレイが行われています。彼は同性との競争関係に入れなかったので、逆に競争関係からしか得られない友情も獲得したことがないという指摘、そして、妻との性的な問題の背景には、父親からの近親相姦の禁止が得られなかった彼は、出会う女性に母親を投影してしまうようになり、異性と恋愛関係になり関係が深まるとセックスができなくなるという問題を抱えていたのです。問題を抱えていても子どもは生まれるのです。男性には憎むべき父親が必要、至言です!!これが核心だったのですね。だから彼はいつもペニスを持った女性を相手に選ぶのです。ここからどこへいくのでしょう。まだ半分なのでこれからまた新たな展開があるのか、それとも徹底操作が残っているだけなのか、いずれにせよ種明かしが始まったことは確かです。ここへ至る長い道のりだったのですね。しかし妄想分裂ポジションは共感しにくいですが、抑うつポジションに入った途端、共感しやすくなるのは不思議です!!(*^-^)ニコこれからまたさらに頑張りましょう!!

 

22回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20101218日土曜日15301830

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過46日面接〜54日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。内容を元に自由にディスカッションです。

21回の報告:324日の面接でウィニコットは、いよいよクライエントが奥さんとの問題で勝負に出ることを示唆し、さらにガールフレンドとの不倫関係をウィニコットが止めるように助言するのではないかという不安を、クライエントの乳児期に母親の育児に父親が入り込みすぎたことで、父親が母親と息子との間に分け入り、息子が母親を異性として求めることに明確に「ノー!」と宣言する役割を果たさずにきているという決定的な解釈をしました。そのために彼は男性とのライバル的な関係に入ることの極端な困難さを抱えてしまっていたのです。だからこそウィニコットに対しても、決してライバル関係にならないように、従順なクライエントをずっと生き続けてきたのです。その指摘の直後の月曜日彼はキャンセルします。そして自分には問題がないということ、またひどい風邪を引いたことに触れ、それがキャンセルの理由だとほのめかします。ウィニコットは慎重にクライエントの不安、精神分析が大変骨の折れる仕事だ、負担だと感じていることに触れていきます。そして面接の回数を減らしたい、頻繁すぎると効率も下がると不平を言います。しかしその後のウィニコットの質問で彼はすんありと、あるいはうっかりと、風が理由ではないと暴露してしまいます。深い問題に戻るのが難しいという考えから、彼の出した「夢から覚め、夢に戻ることが困難な子ども」というイメージをめぐって、彼がこれまでずっと夢を見続けてきたこと、夢から覚めることがなかったこと、前回の面接で目覚めたこと、それまではまったく分析を必要としないほどに夢を見ても夢が夢見ることになっていなかったことを指摘します。次の発言は、もう彼はここへ来たくもないし、来る意味もないとウィニコットにぶつけています!その後クライエントは話題を変えて、器質的な疾患がなくて、長ったらしい話をする患者への不満を述べます。しかしこの患者は彼自身を表し、自分が精神科医であるウィニコットに耐えがたい重荷を与えているのではないかという不安を述べます。そのあとの厄介な患者の話は、ウィニコットがクライエントを厄介な症例だと負担に思い、ついつい自分との秘密を暴露して枠を破ってしまうのではないかという、セラピストに対する決定的な疑いと不満を、自分の言葉ではなく、彼女の言葉として表明します。すごい迫力ですね・・・それに対しノートを取ることを止めることで不安に対してそんなことはないという気持ちを表しつつ、しかし精神分析家として症例について素材を専門家同士で提供し合うことがあるという現実もつきつけます。その後の話も、自分がどんなに反社会的な内容を語っても決して行動化しないセラピストを問いかけます。迫力がありますね(*^-^)41日は眠る自分と起きる自分との解離が現れた直後に、クライエントがガールフレンドに対してカッとなる感情をさらけ出した直後に、それはウィニコットへ腹をたてたことになりますねとずばっと指摘するのは、週3日の精神分析だからこそでしょう。その後のクリスチャンネームの話も、彼が親密さにアンビバレントな様子がよくわかります。研究会では112ページの話とも関連付けて議論しました。そして最後に45日、ついにクライエントがウィニコットのセラピストとしての誠実な態度と努力を認めることにより、クライエント自らの言葉で、ウィニコットがついに魔法使いとして存在することを止めて、技術を応用しようと全力を尽くす普通の人物(person)として存在し始めたと述べるところは、全員で感動の気持ちを共有しました。まだ半分までしか来てないことに驚きますが、広汎に向けてこれからまたさらに頑張りましょう!!継続は力なりですね!!(*/∇\*)キャまた来年の23回には新年

会も企画します!

 

23回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201125日土曜日15301830

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過54日面接〜59日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。内容を元に自由にディスカッションです。

22回の報告:前日45日の面接では、洞察も進み、面接中に眠ってしまうことの意味や、床に足を下ろすことの意味、分析家からの自立などのテーマを話すことができてかなり前進していましたが、また今回の前半はすっかり元に戻ってしまったかのように、奥さんとの性交の話をします。それをウィニコットは精神的なものに読み替え、妻も自分も母親から自立していなかったこと、妻が母親に対して反抗的な態度を取り自立を達成できなかったのは、父親との競争と反抗の関係を持てなかった自分自身に原因があるということに結び付けていきます。さらに今朝見た夢について患者は語りますが、母と妻が登場する夢について、ウィニコットはわざとクライエントの現実の車について質問することで、夢の内的な問題に注意を向けることに成功します。クライエントはペニスをもつ女の子というテーマに戻り、そのイメージに圧倒されたままに留まらず、優位でいたいという気持ちを保ち、妻に優位を保ちたいという気持ちから嫉妬を自分に感じさせたいという話になります。もともとは怒りや嫉妬の感情とは無縁のクライエントでしたが、ウィニコットの精神分析によりすでにその感情を取り戻しつつあるクライエントは、その嫉妬の感情や怒りを投影し、妻が持っている、妻が抱いているという風に感じたりします。そして眠りによる中断の後で「馬鹿にされることを嫌う男」の話をして、イースターの3週間の休暇の前の最後の面接と結び付け、ウィニコットがクライエントと面接との間に割り込み邪魔をする存在であるとの解釈を進め、今回の前半の以前に戻ったかのような感じは、休暇によって見捨てられるのではないかというクライエントの深い不安への反応であるということがわかります。みんなで調べてイースター休暇はせいぜい3日から1週間ではないかとの事実から、3週間はおそらくウィニコットの治療への目的で設定された長さではないかという議論になり、しっかり休暇を取るということは、クライエントに自立の機会を与え、分析家との別れを練習するとともに、実際の見捨てられによる怒りや不安、寂しさの反応を繰り返し体験することで、そのような感情を巡る問題を再燃化し洞察を得る大切な機会だということがわかりました。53日はその休暇を巡って、抑うつ的になった自分、休暇へのあてつけで分析を止めるか回数を減らすかという話から、妻との関係は行き詰まりであり、もう諦めているという、本音とは逆の話をします。憤るクライエント、そしてウィニコットの解釈、「くみ取られるはずの必要としていることが、やがて、欲しがっていることになるという、切り替えがあるようですね。そして、欲しがることというものには、欲しくないことが伴っているのです。」に議論が集中しました。万能的な、自分の気持ちはくみ取られて当然だという欲求の段階から、欠乏していることを実感し欲しがるという段階へとクライエントが移行したこと、それは治療者が分裂妄想体制の理想化された治療者から、ひとりの人間、いいものも悪いものも持ち合わせたひとりの人間と見られるようになったことを表します。ウィニコットを欲しがらないということと、ガールフレンドと関係を続けるということにある虚勢を理解するクライエントは、現実をリアルに感じれるようになってきたのです。そのあとの絵を感じれるようになったということはとても印象的ですね。議論も、ロールシャッハのインクの染みからいろいろな経験を感じ取る能力ができて初めて、絵から受け身的に味わうことができるのですね。自分に会わせてくれない絵は、万能的な自己にとってはとても脅威なのですね。とても難解な回でしたが、みんなで話すことを通して、研究会の場で理解を少しずつ体験できたので、とても意義深い回でした。また次回以降もそんな発見とひらめきの体験ができるような回にしたいなと心から思いました。また頑張りましょう!(*´∇`*)よいお年を!!=*-*=にこっ♪来年はこの本も終えて、ピグルやほかの事例に向かっていきましょう!

 

24回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011319日土曜日15301830

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過59日面接〜513日面接分まで。成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。内容を元に自由にディスカッションです。

23回の報告:前日54日の面接では、前回のイースター休暇3週間の後の熱い語りに比べて、前回の終盤の奥さんについてのクライエントの発言の不確かさの指摘、あるいはクライエントが発達すべき道筋に向かっていたかという厳しい指摘に対する、「ひとつの挑戦」という受け取り方から、省略された長い現実的な話の後で、不安に対する防衛としての、分析を止めるという考えについて解釈をウィニコットが行っている。父母結合像と結び付ける解釈を行っている。そして前回から続いている精神分析を仕事にすることに関して、3つの理由、難しいこと、ほとんど話しているばかりで活動性が低いこと、長時間にわたってなされなければならないのに、その割に成果がほとんどないことを挙げている。最初の難しいというのは、次回の面接で完璧主義のクライエントが、初めて自分の不完全さを素直に認めたこととして評価されている。最後の部分は、逆にウィニコットの不完全性を認め、それへの不満をしっかり指摘している発言として明確である。そのあとでウィニコットはクライエントに、技術系から医学系への進路の変更を振りかえらせているが、それは実際はウィニコットの出会いによってその同一化の中で変化したのであるが、それを意図的にか振り返らせている。その中で彼は、生命のない物体から人間を扱う仕事への変更を、ウィニコットに言及せず語っている。そのうえで父親について初めてまとまった評価を語っている。その中で今まで父親と競争できなかったクライエントが、父親の叶わなかった夢である法廷弁護士や教師の流れで、学者っぽい仕事をしたかった気持ちを汲み、自分がその父親の代わりに夢をかなえたみたいな話をしている。そしてクライエントは「もう話したいとは思わない」と抵抗を示すが、なんとウィニコットは、時間の終わりを、始まりが遅かったという理由で無視して、その枠の外側で、ウィニコットがクライエントを精神分析に引きとめておきたがっているというクライエントの空想を、なんと満足させる形で、枠外でその話を持ち出すということをしている。そして、しがみつく人からは逃れることができるけど、しがみついてこない人からは逃げることができないという発言をしている。55日は、もう精神分析的面接が終わるのではないかという抵抗の発言をして、深い素材についての疑いを述べつつ、時間の浪費や罪悪感について述べるとともに、ウィニコットの「抱えている」(holding)に対する、父親が僕を拒否していたのに、それを母親がごまかして完璧な父親を想像で作り上げていたという洞察を述べる。父親はクライエントを裏切っているのに、それをなかったことにしてしまった母親に対する憎しみを感じているクライエント。そこから完璧についての興味深い話が展開される。お母さんはなんとお父さんへの愛の欠如を、完璧な夫を作り上げることでごまかしたのです。母親は父親を偶像化し、完璧な夫像を作り上げていました。それから回復した母親、彼自身も父親の不完全さを目の当たりにすると気持ちがくじけるクライエント、結局クライエントは父親の不完全さを気づいても抑圧し、完全な父親像を保っていた。その話をしているうちに、クライエントは妻と自分との関係の中で、自分が偶像化し妻を完璧だと思っていたことを打ち明ける。そしてそれはウィニコットとの関係のことも意味しているとウィニコット、ずっとウィニコットを完全だと思い、よいクライエントを演じてきていたクライエント、そして今不完全なセラピストに、結局自分が精神分析をしなければという転移が起こっている事実、不安に対する防衛としての相手の完全性を認めること、そしてそこには、二者関係の世界から3者関係の世界への橋渡しとしての側面もあるのです。衝突しなかったセラピストークライエントから衝突するふたりへ・・・それを人間的になれなかったと正しくも指摘するクライエント、感激しました。クライエントにとって不完全であるということは。、拒否を意味していたのだ。ウィニコットはさらにつっこみ、クライエントの妻の評価は、完全な彼女と不完全な彼女の話しかなく、現実に生きる妻が見えないと激しく直面化する。その結果はまたこれから読んでいくのですね!楽しみです(*´∇`*)またみなさんがんばりましょうね!(*/∇\*)キャ

 

25回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011528日土曜日16001900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過517日面接〜519日面接分まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。

今後学会などの問題がなければ、各月の第4日曜日に固定する予定です。ぜひご予定をお空けください(*/∇\*)キャ

24回の報告:前日5月9日の面接では、前回の五日の時の話、父親の自分の拒否と、母親のごまかしという話にウィニコットが、母親が父親を完全な人だと偶像化していた事実を思い起こさせる。父親を完全な人だと思ってきた子ども時代、そしていくつかの幻滅、しかし自分の完全さについては信じ切っていて、不完全さを抑圧してきたクライエント、それをウィニコットは、人は完全さを必要とする時は、むしろリアルな人と関われないくらいに不安が高い時に完全さを要求すると解釈し、それは妻の完全さ、自分の完全さが壊れることへの恐れと語られていく。そしてそれは治療者〜ウィニコットが完全でないと気が済まない問題へと移り、そこでもウィニコットは、セラピストに完全さを要求する時のクライエントの中の不安を解釈する。父親が完全なら自分の完全にならなければならずそこには競争がないという二者関係と、母親を巡って父親と競争するという三者関係との間を揺れ動くクライエントを指摘します。そしてその次の9日に、ガールフレンドを巡って男友達と競争するのかしないのかという二者関係と三者関係との揺れの話から入るクライエント、しかしやはり負けて引き立て役になることへの恐れから競争をしたくない気持ち、そしてそれはウィニコットとの競争をするという精神分析からの撤退、精神分析を怠け者の問題解決の方法とすることで、逃げようとするクライエント・・・クライエントはセラピストと競争することから避けて、ウィニコットの解釈をうのみにするということをしようとしたりします。いわゆるセラピストにとって良いクライエントとなることで偽りの自己になる方法です。完全だとみなしてもらえることへのクライエントの執着、妻から逃げたのは妻が彼の不完全さを指摘したから、そしてガールフレンドに逃げて性的な完全さに到達することで完全であるという幻想を満たしたクライエント、しかしガールフレンドはついに彼を理想的な完全体とみなさなくなって、別れを迎えつつあります。クライエントは勝つという確信があると言う時だけ戦うと述べ、それは戦いではないということにまだ気づかない、自分が完全であると誰かに言って欲しいクライエント、でもガールフレンドを獲得する戦いに立ち向かえないクライエント、ウィニコットは、不完全さはクライエントにとって拒否の象徴であると指摘します。そこで混乱するクライエント、完全に到達したのか、むしろ完全であることは大切ではないというウィニコットの考えが正しいかという揺れに言及し、ウィニコットの考えに同調し、拒否されることを避けるために面接に来ないというのは駄目だと発言する後で、いつもなら眠ってしまうところでまったく無関係な話に逃げてしまいます。ウィニコットはそこですかさず今クライエントが逃げてしまったこと、でもそれを眠らずにちゃんと逃げたということを理由を含めてしゃべれたことをウィニコットは評価します。そして自分が面接室あるいは精神分析から出て行ったらウィニコットは追いかけてやめないように自分を説得してくれるという幻想について話します。やんちゃで腕白で扱いにくい子どもの部分に対して父親は対処できなかったであろう話、そこから父親は息子と競争できる強さはなかったということに話が進みます。クライエントにとって父親と戦うとは、本当にどちらかが死んで息の根が止まるということを意味しているのです。時間の終わりでのクライエントの傷つきについてほのめかされています。まだはっきりと言うことはできません。510日は、戦えばどちらか一方が相手を傷つけてしまうということ、自分が傷つくのもいやだけど、ウィニコットが傷つくのもいやだという深い悩み、彼は戦いにはとても耐えられそうにない気持ち、そして新しい仕事の話、精神分析の話より仕事の話の方が楽だということ、ウィニコットの考えにかなり戦いをできるようになってきているので、絶望からの回復が起こっていることがウィニコットに指摘されている。513日、よくなってきているという言い方でまた戦いを避けるクライエント、しかし昔よりいい加減になれていること、楽しむことを実感しつつあることという達成を確認します。また人工的に自分を作る=偽りの自己でいることから脱出して自分自身でいられることなどを言語化します。すごいですね(*´∇`*)ビルの窓ふきのたとえはとても生き生きとしていますね!しかしまだ競争ということについては逃げたいクライエント、ウィニコットはやはり競争の話をしていくので、またクライエントは眠り始めます!しかし眠っていることをなんとなく意識し言語化するクライエント、そしてクライエントからの「二人のうちどちらが傷つきます?」というすごい発言に「あなたです」と答えて、ついにウィニコットの方が眠ってしまう・・・ここはひとつの山場ですね!クライエントは今やウィニコットを傷つけるくらいまで情動的になっています。生き生きとしています。そして父親がセックスをするという事実に今まで直面化できていなかったことへのウィニコットの指摘は迫力があります。また父親は死んでいるのでもう父親との競争については知的にしか語れないというクライエントに、「私が生きているということを忘れないでほしい」というウィニコットを僕は好きですね(*´∇`*)

 

26回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011525日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過523日面接〜527日面接分まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。

今後学会などの問題がなければ、各月の第4日曜日に固定する予定です。ぜひご予定をお空けください(*/∇\*)キャ

今回はこの案内を出すのが遅れてしまい申し訳ありません!ついついほかの用事で忙しかったので・・・兵庫県臨床心理士会での講演の準備に時間が取られたぁ・・・(;^_^A アセアセ・・・

24回の報告:17日の面接では、前日のウィニコットの「今この瞬間に、実際に私は生きている」という発言に対して、あなたはむしろ何の役にも立たなかったことがショックだったと切り出したクライエントは、ウィニコットに対して何の感情もない、と愛も憎しみすらも感じないと、ウィニコットを責め立てます。そして、妻とウィニコットと自分との三角関係の話を展開します。妻が、クライエントを捨てたらクライエントは自殺すると思っていたという話から、妻がその是非をウィニコットに会って聞きたかった話、ウィニコットがクライエントの部分的対象関係の解釈として妻を全体として一人の人間として表現しないから話を聞いていてもわからないという発言を、むしろ彼女に会いたいことをほのめかしたと受け取り、しかもクライエントに内緒で会ったと妄想しているところは、彼のエディプス不安が現れています。妻の話は118ページや124126ページに書いてあります。そして次に妻がどれだけ精神分析に反対しているか、どれだけ精神分析のいんちき治療と思っているか、自分は改善はしているけどそれは精神分析のおかげかと詰め寄り、精神分析を無力な無駄なものとしようとやっきになります。そこまで抵抗するクライエントに、ウィニコットは“無意識的協力”という言葉で彼の治療への協力を取り上げ、精神分析が成果があったと主張します。そしてむしろウィニコットが「まだやることは残っているけどあなたができるのはここまでだ」と見捨てられる不安についてきちんと述べています。手のひらを返したようにです。そしてウィニコットはそれを、ウィニコットと自分との男性同士の競争関係として解釈します。必ずどちらかは深く傷つき不具になるという不安です。面接の中断とカットオフされることへの恐怖です。そしてクライエントが時間に間に合うことへの恐れが少なくなり、自由に競争を表現できていることを指摘します。面接中にクライエントが時計を見ないのは、時計を見てウィニコットの精神分析の仕事がお金に見合うところに達していないことを確認することへの抵抗と解釈しているのは面白いです。そしてウィニコットの時間の延長をプレゼントとして受け取っているのも面白いですね。だいぶ男性同士の競争関係が進んでいることを確認できているのはすばらしいですね(*´∇`*)次の518日はなんとウィニコットが個人的な問題で面接をコントロールできずにクライエントを抱える(ホールディング)することに失敗します!彼は面接室から出ていきたいなどの反応を起こしますし、ガールフレンドにとって自分がセックスの実験対象でしかないという不安を語ります。190ページのウィニコットは、自分がaliveでいるためだけにする解釈の例です。そして次回は自分の状態がすぐれずに抱えることの失敗を認め、批判させようとし、実際にクライエントはウィニコットを実を結ばない不毛の土地だと批判します。放ったらかしにされ、不毛な展望のまま分析を放りだされる恐怖について語っているのは、まさにウィニコットが抱えそこなったことへの直接的な不満の表明、恐怖の告白としていきいきと語られたのです。一方で自分がウィニコットを退屈させてしまっただけではないかという自己批判も入っています。それはウィニコットにクライエントが知らない人生があることへの否認とつきつけます。ここは本当に迫力がありますね!その瞬間に「初めて、ここで嫉妬を認めます。あなたが他の人を見ていることに嫉妬を感じます」とクライエントが認めます。本当によくなってきていますね。そして自分自身でまだちゃんと立つことができない時に、つかまるものを引き下げられる恐怖に話が進むのはとてもよくわかります。面接の中でその心細さにクライエントが近付いているのがわかります。面接の後半は今までの総まとめみたいで読みやすいですし勉強になります。いよいよこの面接も広汎、佳境ですがみんなでがんばりましょう!(*/∇\*)キャ とっても勉強になります。

 

27回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011723日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過531日面接〜62日面接分まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。

今後学会などの問題がなければ、各月の第4日曜日に固定する予定です。ぜひご予定をお空けください(*/∇\*)キャ

25回の報告: 518日にウィニコットが個人的な事情でクライエントを抱えそこなったことを、19日でかなり検討して、彼の成長を確認したところであるが、ウィニコットが彼に決断を求めたことで、とても不安になります。いつも彼は面接の最初は前回の話を忘れていたり、前回までの達成がないかのようになりますが、23日は、不安がまるでないかのように、面接がなくてもやっていける、逆境に強いという話から始め、徐々に人を退屈させることへの不安、面接で面白い話をしなければいけないプレッシャー、どうでもよいことを自分が話したら、ウィニコットは過保護な親のようにクライエントをよしよし、いい子だとか使わない得ればならないが、真底では自分を笑い者にしているのではないかという不安を語ります。クライエントはウィニコットの以前の解釈を表面的に受け取り、ぺちゃくちゃおしゃべりができるようになればいいという内容を話しますが、実際にまったくくつろいだぺちゃくちゃおしゃべりを彼はしているわけではないという点をほのめかします。彼はウィニコットに従順にウィニコットを喜ばせようと、ふまじめにしゃべれないと、軽薄にならないとと“真面目に”検討し、必死でいつわりの自分で自己正当化しているクライエントに、ウィニコットは、「ぺちゃくちゃのおしゃべりを過去していて、それを笑われてトラウマになり、二度と無意味なおしゃべりはやめようと思った傷に触れます。無条件の愛と条件付きの愛、自分が必死に話しているのに相手が気もうつろだったらという話から、自分に没頭していた人が気がそれた時の、抱えそこなわれた絶望と怒りに近づいた瞬間に、彼が今まで意味のない偽りの会話をしていたのに、感動的な言い間違い、母の関心を引きつけよう(attract)と言うところを母親の関心を攻撃する(attack)と言い間違え、自分に没頭できずに気をそらした母親への怒りと攻撃性を思わずばらしてしまいます。そしてそこに無意識の噴出、固い偽りの自己のほころびの瞬間があるのです。その瞬間の言い間違えこそが、ウィニコットが求めたぺちゃくちゃおしゃべりだったのでしょう。形式と内容の弁証法が見事にそこに現れていますね。さらにウィニコットは、クライエントの激しい怒りに触れておき、24日、いきなり頭の中が空っぽになったクライエントから始まります。しかしウィニコットは笑われることへの恐怖心を取り上げ、そこからクライエントも父親のからかい癖という大事な話を持ち出し、父を殺害したいほどの攻撃性ということに触れますが、それはまだウィニコットにおもねった部分があります。いわゆるエディプスコンプレックスに合わせてウィニコットを喜ばせようともしています。父にからかわれると、彼は父親に自分のあてこすりや皮肉がまったく伝わらないように綿密にあてこすります。相手に気づかれないあてこすりは何の意味もないように思いますよね。彼らしい考え方だと思いました。クライエントは父親のこととウィニコットが重なるということを否定し、ウィニコットとの競争関係やウィニコットへの激しい怒りを否認します。彼は自分のプレゼントが笑われる危険性を、プレゼントを排泄物に喩えていますが、本来は排泄物は母親に向けた怒りでもあるので、彼のように被害的に受け取るのはおかしいのですが、彼はウィニコットにおもねっているので気づきません。彼は失敗の危険を避けるために、テニスで打ちやすいところに近づくことへの抵抗を語ります。しかしついに27日に、ウィニコットが前回の最後での彼の失望を取り上げて、彼は夢の話をし始めて、誰かに自分の世界に入ってほしいということを語りつつ、久しぶりに眠ります。自分の心に何が起きているかわかりますか、僕が何も言わなくてもウィニコットはすべてを問題なくできますか?という挑発と攻撃の発言を夢見心地の中で行い、ウィニコットも記録を取らずに進め、父親がおしゃべりな話に逃げ込もうとするクライエントを、話を聞かされたクライエントに戻し返し、そのあとで、クライエントから、「ウィニコットを殴るという話をすることはあなたを殴るのと同然だ」という話をします。まさに言葉として彼はウィニコットを殴るのです。すごい激怒ですね。最後に、父は本当に無抵抗主義者だったということは、翻訳者北山修の逆転移じゃないかという話もでました。原語はpacifistですから、平和主義者、あるいは武器を使用しない主義であり、無抵抗という意味はありません。また、最後の「決して思えませんね」とは、まるでウィニコットがきつくクライエントに言い放ったように読めますが、原語は、クライエントが思えてしまうくらいの柔らかい意味です。北山修はこの父親と息子との激しいやり取りの話にとてもコミットしているのがわかります。いよいよウィニコットとクライエント関係が、父息子の関係と移し替えられ激しいものになっていました。あと残りは1カ月と少しの分しか残っていません。頑張りましょう!(*´∇`*)

 

28回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011827日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過62日面接〜67日面接分まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。

今後学会などの問題がなければ、各月の第4日曜日に固定する予定です。ぜひご予定をお空けください(*/∇\*)キャ

27回の報告: 527日に、前半の睡魔に襲われ続けるクライエントが、途中から父親が自分の世界に入り込んでくれなかったことを話す中で、父親の遊びのない知的な会話にさらされ続けた記憶を呼び覚まします。彼はウィニコットを殴る話をすることと実際に殴ることの差がわからなかったという理解もできます。父親とウィニコットは同一視され、ウィニコットに対する転移としての不満や怒りが意識されるとともに、エディパルな男同士の闘争関係が問題になるたびに眠ることによる抵抗反応と意識化とがせめぎ合います。ウィニコットへの欲求不満と怒りの転移を通して、知的な会話で自分を緊張させ続けた父親を殴りたい気持ちがわき起りかけています。それはウィニコットを殴りたい気持ちを通してなのです。父を殴っても反抗せず凹んでしまうという親子関係は、自分のケースでもたくさんあります。親を凹ませる緊張と罪悪感に耐えられない子どもは自分を偽りの世界に引きこませます。愛し合い、憎しみ合い、殴り合う関係こそが、リビドー的な対象関係を結ぶということなのですね。それをこのクライエントは今まで一度たりもしたことはなかった。さて、次回の531日は、今の流れからまずはリビドー的には完全に断裂されつつ、意識的にはクライエントがウィニコットの解釈を知的に受け入れるというクライエントの昔ながらの病的な反応で幕を明けます。本当の自分がなかったとか、非個人的にしか関われないことについて語りますが、偽りの自己で語り、感情は動いていません。彼らしい夢が語られ、その夢は空想を含まない、内容を排除された空っぽの内容です。義母は出てきますが、まるで彼のように非個性的で隔たりのある感じなのです。彼は内容としては、壁を壊したい、ダムを決壊させて感情を噴出させたい、泣けるようになりたいと語りますが、それを可能にしないのはウィニコットであると、ウィニコットの能力や治療への後ろ向きな態度をあげつらうことに終始します、転移が嫌いと言っていましたねとウィニコットが指摘しても、それは妻が同性愛が嫌いだったからだと、妻のせいにして逃げます。ウィニコットがダムの裏には悲嘆の涙がありますねと厳しく介入しても、愛の話にそらせ、ウィニコットは、端的に「あなたと私との間には壁がある」という指摘をします。前回の雰囲気に近づき眠気がクライエントを襲います。しかしそれは抵抗が現れているという意味で、その裏の不安と攻撃性が沸き起こっている証拠とも言えるのです。それが治療者に理解されるまでクライエントは変化してきているのです。コントロールの話題をしてから、急にクライエントは、明晰で論理的な説明や発言ができなくなり、思考が停止し、義母が思いついたことをすぐに言える人であり、クライエントがないものをもっているということでクライエントは義母に羨望と嫌悪感を抱いていると発言できるのです。その後さらに落ち着かない感じ(restless)が彼を支配し、ウィニコットの指摘から、娘も義母と同じ自発性があり、どうしても娘を妬んでしまうということ、そして前回の続き、父は知的な話をすることで聞き手を不自由にし、囲い込んでしまうこと、それで自分は何も言わないことが最善策と学んでしまったことを語る。ここで父への怒りが沸き起こり、同時にウィニコットへの怒りも湧き起こり、足を床に降ろしてしまう。すかさずウィニコットはそれを、面接から立ち去りウィニコットを戸惑わせたいというクライエントの気持ちとして解釈します。まさに突然壁の突破が起こり、ウィニコットとクライエントはエンカウンターしたと言えるでしょう。この今までのまとめのような回の後の61日、冒頭で初めて自分が面接室に“いる”という実感を語ります。感動的ですね。今まで娘のことなど話をしなかったのは、娘の子ども性を感じることができなかった彼の問題のためと思われます。自分ひとりで生きていけるのかわからないという発言を、ウィニコットは初めて一人でいられるかもしれないという気持ちと解釈しますが、この発言は半分あっていて、半分は早すぎたと思われます。それはその発言を通して、クライエントは、ウィニコットがクライエントをもう一人で生きていけると治療から追い出したいという逆転移感情として理解しかねないからです。そしてクライエントから、昨日自分のなかからあらゆるものが溢れだした瞬間に退室を余儀なくされたことへの不満などに触れます。この時のパイプを手でいじる行為はどう解釈されるか、みなさんで考えてみてくださいね。研究会ではいくつかの意見が出されました。そしてまた混乱に入ります。自分の許可なしに入院を許可された患者を叩きだしたいというクライエントの空想、それを前回のせっかく自分自身になったクライエントを叩きだしたウィニコットの写しであると解釈するウィニコット、そして先ほどの独り立ちと関係して、治療の終結への不安という反応としても理解していきます。とてもわかりやすいですね。ウィニコットの解釈はクライエントに受け止められ、叩きだされたことへの不満も、治療の終結への不安も受け止めてもらったクライエントは、誰が自分の変化に気づいてくれるかという話題に入りますが、ウィニコットはそれをちょっと強引に娘にもっていきます。これはひょっとして早かったかも、クライエントに子どもの部分をもっと受け入れなさいという支持と背中を押すことに伝わり、彼の気持ちにそっていなかったかもしれません。そのあと母親の話、しかも母親が母としていてくれなかったことへの不満に近いものを初めて出します。今までは父親の完全性を支える存在として負の影響を語っていましたが、はっきりとした感情は示されていませんでした。ウィニコットはその母親像を治療者が引き受けていたねと解釈すると、クライエントは、いつから母は母親像でなくなったのか一緒に考えてほしいと言います。それに対してなんとウィニコットは一生懸命例を挙げて一緒に考えてあげます!これは精神分析そのものとは異なる態度で、ウィニコットのホールディングの真骨頂といえるのではないでしょうか?いよいよ話は佳境に入っていきます。とても勉強になりますね!自分のケースにもいい影響がどんどんありますよね(*´∇`*)頑張りましょう!

 

28回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011924日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過610日面接〜615日面接分まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。

今後学会などの問題がなければ、各月の第4日曜日に固定する予定です。ぜひご予定をお空けください(*/∇\*)キャ

27回の報告: この研究会ももう28回ですね。感慨深いものがあります。62日は、ここ2回ほどの前進が全く失われたように、偽りの自己が現れます。夢に対する親和性の発言のあとも、ウィニコットにこびたり反発したりを繰り返します。しかし、ウィニコットが偽りの自己ではなく、遅刻してきたことを指摘してから事態が動きだします。遅刻してきたことをいつクライエントに指摘するかという問題に気付かされました。遅刻はいつも最初に指摘することがおおいですよね。しかしそれが意味のある洞察につながることはめったになく、たいていは電車に遅れてとか、朝がばたばたしていてという合理化に終わってしまいます。面接の途中の、何か動き出す瞬間に聞くといいのですね。いきなりウィニコットに対する失礼なことをしたい気持ち、ウィニコットの気分を害したい気持ちが現れます。そしてリアルな気持ちが動き始める中で、アクティングインとしての、右手の指を口にもっていきます。その回の面接の最後は、この偽りの自己が現れたのは、面接の終結が近付いたことへの反発、もう何も話題に出したくないという傾向が出たとほのめかします。演じないことを演じるという逆説が、次回の秘密をもつようになることにつながるといいます。ちょうどその回になんとウィニコットが面接の最後の10分間、用事でいなくなるというアクティングアウト(イン??)をします。なんということでしょう?!?そしてクライエントはそれに深刻に揺さぶられます。激しい怒り(fury)が出て、その瞬間にウィニコットは前回のアクティングインと結び付けます。指を吸うという行為は、34ページや110ページですでに取り上げられています。口唇愛欲求ですが、しかし彼はそれが移行対象の意味をもたなかったという指摘、しかし面接の中でそいれとつながってきていることを思い出します。そして僕の経験を僕のためにとっておくという話、何かを秘密にしておく権利をクライエントが感じれないからこそ面接に来ないということで自分を守りたいという欲求として現れたという指摘につながります。こないということで自分自身を見出したいという願望、この感覚はとても興味深いです。しかしその空白の10分にウィニコットがたばこをクライエントに渡したかもしれないということも驚きました。ウィニコットのなかにあるクライエントの憤怒への防衛的行動化ですね。こんなことしちゃいけないですね・・・次の回はクライエントがかなり眠ります。そして何年もの間狙いをつけてきたことが、うつぶせというのは性交中の男性の正常位であるという問題!!!研究会ではこれをどう理解したらいいかで激論しました。結論、これはたまたま当時の学会で問題となっている事柄だったのだろう・・・今読んでいる僕らにとってはそんなに深い意味はない。こんな感じでいかがでしょうか()みなさんのご意見をまたお聞かせください。ではまた頑張りましょう!=*-*=にこっ♪

 

30回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011115日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過617日面接〜622日面接分まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。第30回は都合により10月第3週ではなく、11月の第1週になります。ありからず!

29回の報告: 67日にかなり父親に対する怒りや憎しみについての理解に到達したと思っていたのに、また610日には、今までの達成がなかったかのように面接が始ります。ウィニコットはすぐに前回のお父さんの亡くなった日から変わった人生について思い出させようとします。5,6歳の頃の話に導こうとするウィニコット、母親が学校を経営していた話、彼の家族にたくさんの母親の教え子が浸入したこと、そこから彼への愛情を奪った妹へ意識を向けさせようとするウィニコット、母親の胸や膝を妹が奪う体験はクライエントにかなりの嫉妬を体験させたはずとの読みです。。クライエントの激しい怒りについて話題を向けようとするウィニコット、彼はひきこもることで全能感を保ち他の子どもの命を救うという解釈、彼の攻撃性は攻撃性はそこまでも激しいということです。p222」でもウィニコットはクライエントに、母親の膝を奪った妹に注意を向けようとしています。p202では、母親に魅力を感じたと言おうとして、母親を攻撃したという単語を無意識に選んでしまったクライエントの心の底にある母親への憎しみが現れているのです、その当時から。話さないことが殺すことを意味するというウィニコットの解釈に、抵抗をするクライエントは、自分が沈黙は役に立たないと思うので、ウィニコットに「証明してみなさい!」と挑発するところが彼の攻撃性を表しています。クライエントに解釈を与えすぎると、それがすぐクライエントの知性化を促してしまうことに徐々に気づきつつあるウィニコット。クライエントは、自分が5歳から大人へと一気に成人することで、不快な体験をさけるひきこもりの気持ちについて話します。614日は、前回ずいぶん眠ったことを自分で話しつつ、疲れているからこそ自分は真実に向かおうとすることすらしないから眠らないはずという不思議な理屈を述べます。クライエントは、ウィニコットの同意する傾向、絶対に拒絶する以外は同意してしまう自分の弱さについて話します。クライエントは、戦うといいつつもウィニコットは決してちゃんと攻撃してこないことについて不満を述べる一方で、完璧を演じる父親も母親も、自分にとって軟弱で食えないものだと述べる。ウィニコットは、クライエントの沈黙こそがクライエント自身であることを見抜きます。浦井円とがしゃべる時は、常にだれかを喜ばせてその人に愛されたいというゆがんだ欲望なのです。クライエントにとって解釈は、受け入れるべきもの、もともと正しいとされるものという理解を示します。彼にとって解釈は大丈夫ですが、発見は恐れてしまうと述べます。そしてそのあと驚くべき考えを述べます。クライエントにとってウィニコットの解釈は、ウィニコットが言葉を吐いていることと体験されているのです。だからウィニコットの考えを受け入れるとは、ウィニコットの吐いた吐しゃ物を口にすることであり、逆に自分が吐き気をもよおします。クライエントはそれがウィニコットが吐いた物とはわからずに食べて、半分消化した時点でそれに気付き、吐きだすのです。クライエントにとって話さないことが人生なら、このままやっていくことは価値がないと感じると打ち明けるクライエント、そこでウィニコットは明確な発見をします、クライエントは、価値があるという条件付きで愛されること、この言葉がクライエントを変えます。クライエントは愛されていると信じようとして、仮定をする、でも自分では何もせずに、実際にも他人を何もさせずに、でも頭のなかでは(抽象的には)物事をさせようとすること、それは魔法でしかないと気付くクライエント、でもその不可能性をしっているウィニコット、心が動きますね、共感できます!

結局クライエントが見失っているものは、母親が彼を最初から愛していた=同一化していたという事実そのものです。だから、解釈そのものはクライエントが受け入れることで、解釈が正しいと思えるという従順になります。他方で現実に何かを発見することは恐ろしいのです!615日は、前回の達成を劇的だと受け止めるクライエント、しかし内容は拒否したいクライエント、クライエントはウィニコットが断言する仕方に父親を見て断固とした父親への不信感を感じていたのです。今までどれだけウィニコットが断固として解釈をしてきたことか、クライエントはそれをいつも断固とした父親と重ねて不快感を感じていたのです。彼にとって父親も母親も完璧な人として余地がなかったのです。しかし彼はすでに眠いという自分に自覚があります。そして256ページのクライエントの言葉、心の中で起こっていることと、私たちの話していることがかけ離れていると初めて認めることで、知性とリアルとの違いと初めて実感をもって感じれたのではないでしょうか?お父さんもお母さんも遊びの余地を与えなかった、ウィニコットさえも断固として解釈することでクライエントに遊びの余地を与えなかったのです。そのあと初めてクライエントが自由連想をするようになること、自分を完璧と思わないですんだので、こんな言い方は子どもっぽいですねと、自分を俯瞰する自分がでてきた。そして鬼の出現、これはいつまでも追いかけてくれるイメージとともに、人食い鬼としてクライエントを食い物とするウィニコットのイメージ、クライエントを飲み込み食い尽すイメージがクライエントの側から出現します。いよいよあと3回で終わりです。頑張りましょうね!!!(*´∇`*)ついでに次に何を読むか考えていきましょう!(*/∇\*)キャ

 

31回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20111126日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過624日面接〜629日面接分まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。第30回は都合により11月第3週ではなく、11月の第4週になります。ありからず!

30回の報告: いよいよ抱えることと解釈もあと3回を残すのみとなりました。感無量です!617日は、わかるようなわからないような回でした。しかしウィニコットがここまで

愛という言葉を使うとは。。。。前エディプス期においては、自分だけでは存在できず、母親=セラピストに望まれることによって存在を許される時期があるのかもしれません。彼の男女関係も自分から始まることはありませんでした。まさに、愛される能力と愛する能力の違いがそこにありますね。母親が赤ちゃんとの同一化に身をゆだねること、これが原初的没頭のことなのでしょう。ウィニコットがお金のために分析をしたのか、それとも分析の成功に心を向けていたのか、まずは疑いがあるのでしょう。セラピストは悪意をもっている、仕事としてのみ心理療法をしている、心から誠実にしていないなどの疑いです。人間の存在することへの関心とは、病気を治すことに先んじるのでしょうか?難しい問題です。淡々と病気を治すセラピストのイメージも好ましいですね。現実的で。どのような態度で心理療法に臨むのか、どうでしょうか?どちらにしろクライエントにとって大切なのは、自分の限界の中で生きるということ、本当にこれが達成されればすごいですね!これって意外に難しいと思います。実際に存在できる見通しはないということは、セラピストへの挑戦である、至言ですね。勝手に治してみろよ、絶対に自分は治らない、何も起こらない、こういう感覚ってクライエントが持っている感覚、エディプス以前の状態の、嫉妬ではなく羨望ですね。セラピストを貶めたい。すぐれた治療者と思いたくない、それは自分がみじめだから。本当に難しい問題です。621日と22日は、とてもわかりやすい面接でした。ある意味彼らしくない(;^_^A アセアセ・・・自分が分裂病に近いという事実、あるいはお母さんと奥さんとの類似点と相違点の問題など、まるで普通のカウンセリングになっています。この面接にとって、目標は、普通のカウンセリングの出発点に近いのですね。これは面白かった。ウィニコットはいまやクライエントを励ましているように思います。自我支持的ですね。最後の部分が楽しみですね!あと3回、しっかり読み込みましょう!=*-*=にこっ♪次の本も楽しみです。何にしようかな(*/∇\*)キャ

 

32回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201117日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過71日面接〜76日面接分まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。第32回は都合により12月第3週ではなく、1月の第1週になります。

31回の報告: 第31回は、最初人が3人しかいなかったので、瀬々倉さんの話をみんなで聞きました。Cooperationcolaborationintegrationとの違いについて議論しました。

とても興味深い議論でした。やはりintegrateしないとダメですね(*´∇`*)

624日は、とても難しい内容でした。まるで以前に戻ったかのように、彼も眠りますし、ウィニコットも必死でしゃべります。278ページの、クライエントが自分で顔に手を当てることを、母親が不安な幼児に手を当てることとなぞらえたのは秀逸でしたね。そして頭の外での頭痛を、以前の論文に喩えて、手を握ってもらうことになぞらえたのは秀逸です。そしてここで初めて、ガールフレンドとの性的接触を、セラピストとのスキンシップに照らし合わせます。この話は深いですね。適切な解釈は身体性をもっている・・・秀逸ですね。28日は、最初から何も話すことはないと宣言しつつ、そこにある肯定的な意味合いを見出しています。離れていることがリアル・・・たしかに。母親(mother)と息詰まる(smother)との対比、英語ならではですね。ラカンが言うように、すべての分析はその言語の中でしかできません。それをほうふつとさせますね。ニーズと怒りの相補性、怒りの根源を意味しますね。クライエントが自分は支えられていないと訴える時、それを支えているのはセラピスト自身、なんたる矛盾、なんたる逆説でしょう。僕はあなたを信頼していないとクライエントがセラピストに言う時こそが、クライエントがセラピストを信頼している瞬間・・・629日の面接は、妻と男との三角関係で始まります。とても印象的な夢、分析のスピードが合うということ、セラピストはクライエントにぴったり寄り添うことが理想です。でもそれはほとんど叶わないのです。クライエントがセラピストを破壊してしまうのではないかという恐怖、でもセラピストはそれを乗り越えるような本来的な安定感が必要ですね。難しい・・・あと2回で本当に終結するのでしょうか?あるいは中断??あと2回とも頑張りましょう!(*´∇`*)

 

33回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011年2月4日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『抱えることと解釈』岩崎学術出版面接経過7月6日面接〜713日面接最終回まで。

成人の分析の逐語録的な内容をみんなで読んで意見を出し合い理解を深めます。

内容を元に自由にディスカッションです。第33回は都合により2月第3週ではなく、2月の第1週になります。

32回の報告: 第32回は、71日から始まりました。彼が夢を見たけど忘れたという報告から始めます。内容は忘れましたが真実が垣間見えでいて、また争いの予感がします。夢を忘れるという形で彼が初めて夢について偽りではなく語ったのだと思います。夢を忘れることによって、自分の夢がウィニコットに支配される危険から自分を守っているからです。結局夢とはそんなに言語で構造化されているものではなく、ごちゃまぜの、むしろ音しかないこともあるぺちゃくちゃしゃべりなのです。クライエントが体験していないものをウィニコットが解釈してしまうと、それはちょっとした行きすぎによって決定的に失敗してしまうのです。かすかな瞬間的な早すぎが、彼を強いてその内容を受け入れるように仕向け、彼を物分かりの良い大人にしてしまう危険があるのです。それを正しい解釈への抵抗と見るのか、それとも早すぎる解釈による彼の最早期の外傷体験の再現と見るのかで180度違うのですが、その差は微妙です。彼は今ウィニコットの解釈に対してはっきりとそれは早すぎる、それは間違っている、それは行き過ぎであると異議申し立てをします。抵抗のある部分はきっと正当なのだろうと思います。クライエントがセラピストへの依存から脱出し始める時、解釈が正しかろうと正しくなかろうと、異議申し立てをしてセラピストに抵抗するのだと思います。オットー・ランクが発見した患者の抵抗のうちにある正当な意思ですね。彼は依存の真っ最中にあり、ウィニコットの愛を徹底的に欲しがりながら、一方で自分の世界のあらゆる部分にウィニコットが入り込むことに抵抗するのです。さらに眠ることでウィニコットを侮辱していること、もうひとつ、クライエントを眠らせることでウィニコットが謝罪することへの嫌悪感が現れます。この思考は大変わかりにくいですが、妻が話をしている最中にクライエントが寝てしまい、クライエントが妻に謝ると、それは行き過ぎてしまい、傷ついた側に謝罪を受け入れるように強いる要請が含まれ、結局は傷ついた方が相手の世話に回らなければならないという部分を彼は意識しており、逆に自分が寝ていることでウィニコットが謝ったら、ウィニコットがクライエントに謝罪の受け入れを強要し、ウィニコットを世話する役割に陥れられることへの嫌悪感なのです。大変わかりにくいですね(;^_^A アセアセ・・・早くから字が読めることで、絵本を読んでもらう経験を奪われてしまうという話、身につまされますね。発達障害の子どもも同じような目に遭っているのでしょう。苦手だからということでますます知的なことに拘泥していってしまい、感性的なこと、感覚的なこと、感受性を育てる部分が見過ごされてしまうのです。75日は、まずウィニコットが遅刻した上に隣の部屋がカクテルパーティでうるさいのです。ウィニコットが、クライエントの目的のなさを、母親がおっぱいをあげることで目的を赤ちゃんに与えることに失敗した環境側の失敗、母親の感受性のなさを解釈した時に、「僕はっ失敗をやり直そうとすべきなのか、あるいは、自分の成長過程で何かが見失われているということを認めるべきなのか?という問いかけはとても本質的なことだと思います。精神分析は理解を目指すが、自分がちゃんと育てられなかったということを理解したことで治るのか?という心底からの存在の問いかけだと思います。ウィニコットはその存在論的な問いには答えていないように思われます、もちろん答えることは難しいですし、絶句するしかない部分かもしれません。ウィニコットはそこでも厳しく、精神分析は環境の失敗とか足りないということに気付かせることだと述べ、もしセラピストが失敗したなら怒りで反応してほしいと言います。そこが精神分析家の倫理なのでしょうし、生き様かもしれません。ここはいろいろな意見があるところではないでしょうか?302ページで、解決策がないということ、自分の欲求は満たされないということ、望みのなさを心底感じているということを、他者であるウィニコットに訴えることそのものが、二人でいて孤独というすさまじい内容なのだということに身も心も震えました。ふたりでいて一人であるということを納得するということは、とてつもない欲求不満と絶望と望みのなさに耐えるという絶望的な試みを通してなのです。なんという過酷な体験なのでしょう。普通の赤ちゃんの中で目立たずに行われているが過酷な経験を大人になってからすることの恐ろしさと孤独感、この深さに唖然としました。すごいですね・・・愛については、日本語が悪いのか照れくさいですね。愛とloveとの近いでしょう。いよいよ次回は最終回、ようやくここまで来ました!!!感動的です。地道にずっと月1回続けてきてようやく最後に来ました。多くのことを学ばせてもらったと思います。次回を大切にしつつ、次の本を選ぶ楽しみもあります。頑張りましょう!!(*/∇\*)キャ

 

34回神戸大学ウィニコット研究会のお知らせをします。

1年半にも及んだ『抱えることと解釈』がついに前回で終わりました!長かった・・・長い道のりでした。何度もくじけそうになり・・・しかし継続は力なり!!

研究会に参加した人、このメールとともに読んでくれていた人、頑張りましたね!(*´∇`*)

次回の本は、ピグルか、子どもの心理面接か、迷いましたが、とりあえずしばらくはまた理論の本を勉強しようとのことで、情緒発達の精神分析理論を読むことにしました。

この本は日本に最初に翻訳された本ですかね??また継続は力なりの精神で頑張りましょう!!

34回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011年3月17日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第1章〜3章。

内容を元に自由にディスカッションです。第34回は3月第3週になります。

33回の報告: 76日は、もう最終回の二回前だというのに、いつもとまったく同じように面接は進みます。彼の夢に現れたのは、155ページや172ページに出てきた“X”病院や、“X”という地名と同じ名前の教授です。臨床試験がクライエントの診ている患者について行われ、おしゃべりが行われる。その夢をウィニコットはおしゃべりで解釈するが、本当は穏和で親しみやすいというところから、ウィニコットの転移として解釈できる可能性があったと思われます。“X”教授は、高いレベルをクライエントに要求し、責任の問題に発展する。また、その頃観た映画、3人のセールスマンと奥さんの映画、競争原理を描く映画が問題にされる。憎しみと嫉妬を自分のものとして認める難しさがありますね。しかしウィニコットは、子どもの頃の話から、男女の差に言及します。これが的を外れていたみたいで、ウィニコットは自分が失敗し、解釈で抱えることを失敗した自分を認めるのです。78日は、また“X”教授が夢に現れ、またウィニコットは転移として解釈せず、自分と競争者との関係の話に持っていきます。このあたりで服装などが変化します。仕事のための面接、医師の仕事の部分と人としての倫理観や人柄、難しい問題です。しかしウィニコットは、仕事と試験の問題に戻し、拒絶という絶望について話題にします。そして追いつめられた患者は、眠る前に、これ以上話したくない、今日はもう話したくない、不愉快だから出直したいと認めます。そのあとで眠ります。ウィニコットは競争という話題に持ち込み、あまりにも早く進んだのではないかと、深刻な疑問を感じて立ち止ります。これこそが、解釈で抱えることをしそこなった瞬間なのです。一日キャンセルをした後で、仕事を得られなかったことを報告し、治療を中断したいとはっきりとウィニコットに述べます。患者はこの仕事の面接の中で、今まで以上に競争の中に身を置くことができます。これが素晴らしい達成になるのです。妻のボーイフレンドに対しても、健全な競争心を感じることができるようになります。そして分析を中断するという宣言を言うことに対して、彼はウィニコットがそれは困ると言ってほしいという欲求を感じていることを暴露します。患者は自分の意思で分析を受けに来ていると思いたくないのです。ウィニコットが受けに来てほしいという欲望をもつことで、ここにくる言い訳をするのです。ウィニコットはそこで微妙な言い方をします。彼が分析に来てくれるということを好ましく思うと言ってしまうとともに、仕事を取って分析に来なくなることへの進歩を喜ぶ気持ちについても認めます。その中で患者は、中断したら破たんするかも知れまいと言う不安を口に来ることができます。彼は前回の中断の後に破たんしたことに不安をもっていたのです。このような患者の挑戦真に対して、ウィニコットは中立性を破り、戻ってきてほしいとはっきりというのです。これがまさにウィニコットらしいといえるでしょう。このようなウィニコットだからこそ、この患者のような人格障害をもつクライエントが分析を続けることができたと言えるのではないでしょうか?最後にトーテムとタブーについて議論している姿は、ふたりとも話を深めるよりも、知的な話に逃げ込むことを共有しているように思います。そして終結するという流れが何ともいえず秀逸ですね。彼はウィニコットに支配されないために、9か月先に戻らないことを選びます。

長い記録でした。しかしよくよく考えるとたった半年の出来事なんですね!!毎週3〜4回も面接をすることのすさまじさですね。もう数年間も面接をしたような感覚に陥ります。彼は本当は週5日の面接を受ける予定だったのですが、いろいろな事情もあり、減らさせてもらうのです。医師なので経済的な問題ではないことは確かです。不思議な縁を感じるのは僕が東洋人だからでしょうか!?

次はまた理論に戻ります。さらに前進するために頑張りましょう。しばらくウィニコットをやり、次第にマリオンなどのウィニコットの弟子にいくのもよし、ドルトなどを読むもよし、この勉強会が充実したものになるようにしたいものです。いつものセリフ、“継続t力なり”、何年かかっても道を歩み続けましょう!(*´∇`*)

 

35回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011428日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第3章〜5章。

内容を元に自由にディスカッションです。第35回は4月第4週になります。

34回の報告: 第34回は、久しぶりに理論の本の研究会でした。ずっと1年半事例を検討していたので久しぶりで内容についていけない?!?精神分析と罪悪感は、まさにウィニコットの罪悪感理解です。罪は意志の中に宿るという詩人の言葉で始めるのはまさにウィニコットの真骨頂、フロイトから始まり超自我から入りますが、罪悪感を引き受けることが人間であるということの徹底した理解、海岸にいけなくなった少女の事例、父親の死への責任感で苦しむ少女の事例、どれも興味深いものでした。そして罪悪感の起源から、クラインの業績、原初的愛情衝動が攻撃的性質をもつということ、修復と再建の機会を求める幼児の欲求の話、人間の内的世界における果てしなき格闘の問題を指摘し、反社会的行動の分析に至ります。反社会的行為は、それをする前には罪悪感を喪失しており、反社会的行為をすることでそこに罪悪感を無意識的にあらしめようとする傾向があり、反社会的傾向には罪悪感が表現されていないように見えるが、むしろ積極的に意志を表現し自分で環境を発達促進的なものに改変しようとする自己の健康な努力の表れとみるウィニコットは、まったく面目躍如ですね。反社会的行動の子どもの理解はウィニコットが最適です。ぜひぜひスクールカウンセラーをする人は理解しておいてください。そして次の第2章の一人でいられる能力!昔は読んでもちんぷんかんぷんでしたが、例の成人の事例を読んでからは、とてもよくわかりますし、一人でいられる能力を獲得する道がどんなに過酷で苦しく大変かが心底わかり、感銘を受けました。そしてその話から、僕の事例や星野君の事例を深く議論していきました。やはり理論編は事例の話になるととても興味深く、理解も深まりますね。守秘義務の問題でここに書くことができないのがとても残念です。みなさんもよければ参加してくださいね。英語を参照しつつ、ずっと読み続けることの利益は計り知れないです(*´∇`*)それではまた次回に!

 

36回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011526日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第5章〜6章。

内容を元に自由にディスカッションです。第36回は5月第4週になります。

35回の報告: 第35回は、まず第3章の親と幼児の関係に関する理論を読みました。読みにくい、翻訳としても悪い感じだったので、英文もみなさんに配りました!牛島先生も誤訳がたくさんだから最初だし手を抜いてる??この文献で面白かったのは、乳幼児の時に母親にholdingしっかりされて健康な幼児ほど、現実のよい、あるいは悪い体験を、投影としてしべて加工できるという万能感の考え方ですね。結局乳児の万能感を支えているのが、母親の原初的没頭なのですね。それは納得。また、イド満足は、自我を強化し健康な情緒発達につながる一方で、イド満足が身体的満足の色合いをもち、自我構造を圧迫するということの意味がわかりました。イド衝動は、それを必死で自我が受け止め、加工し自分の経験として組み込む努力をする中で、自我は強化されるのですね。しかし、自我にとってはそれは圧迫なので、イド衝動を受け止めきれず崩壊する危険にもつねにさらされます。受け止めきれなければ、それは常に自我の外部に留まり、精神病的根っことして残ります。抱っこって物理的にも心理的にもとても大事なのですね。赤ん坊がどんなイド衝動にさらされてもそれをコンテインする母親の懐があれば怖いものなしですね。しかしもしそれがなければ、ちょっとした母性のほころびも、子どもを絶滅不安に突き落とし、侵襲として機能し、赤ちゃんはそれに反応することで、心を使い切ってしまう。第4章は少しわかりやすかったです。自分から自分でないものを分離する前の人生早期の母親の失敗による赤ん坊の影響は本質的なのは、自己を保持するための特殊な防衛が、世話役の自己や人格の偽りの側面の組織化を進めるのであり、その人格の表面にあらわれたものが、なんと個人から生まれたものではなく、母子関係の母親の側からの派生物だということは強烈でしたね。だからこそ偽りなのですね。母親の期待の顔を満たそうとする鏡としての役割、母親が喜ぶことをすることで自分を消して生き延びようとするぎりぎりの防衛という選択、せつなくなりました。このあたりのことを、事例を取り上げながら議論しました。事例を提出してくれた方、ありがとう!!(*´∇`*)リンゴが欲しい時にリンゴを提示し、あたかもクライエントがリンゴを作り出したと体験できるように関わる・・・できたらいいなぁ・・・!!また次回頑張って読みましょう!(*´∇`*)もう研究会を初めて5年ですね。研究会の後の飲み会は楽しかったです!

 

37回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2011623日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第5章7〜8章。

内容を元に自由にディスカッションです。第37回は6月第4週になります。

ところでこの研究会の案内も送付し始めてだいぶ経ちます。このメールの配信停止を希望している人も多いと思います。そこで配信希望の人は一度返信してください。返信のない場合は次回から配信を停止します。よろしくお願いします。今まで希望のないままに送りつけているとすると申し訳ありませんので、一度整理したいと思います。

36回の報告:当日は5章〜6章をする予定でしたが参加者が少なく、最初はお互いの持っているケースについての検討会になりました。特にこの研究会でよく取り上げるケースについて話し合いをすることができました。ありがとうございます。続いて遅れてきた参加者の到着により6章のみを行いました。6章はもっとも大切な論文のひとつ、「思いやりをもつ能力の発達」を検討しました。思いやりとは罪悪感と表裏一体をなす概念ですが、その肯定的な側面を描いています。だからこそ、同じ現象を罪悪感としてとらえるのか、思いやりとしてとらえるのかによって、クライエントは100%異なる体験をします。すなわちクライエントの怒りや恨みへの罪悪感、対象を破壊することへの罪悪感ととらえるのか、それとも対象への思いやりとしてとらえるのかでは、クライエントの傷つきがことなるのです。そこがとても印象的でした。思いやりとは、もっとも大切な愛着対象を、とことん破壊し尽くしたいという矛盾した人の心を耐えることができるようになる瞬間の話です。もし妄想分裂態勢なら、問題なく無慈悲に対象は破壊していたのですが、抑うつ態勢に入ってくると、その無慈悲さの奥にアンビバレント、愛着対象を破壊することへの瞬間的な躊躇と配慮、罪の意識が生じるのです。その際に用いられたのがFusionという概念、融合という概念、性愛衝動と攻撃衝動が同時に体験されるという事態です。ウィニコットにとって、攻撃性の起源は、別の論文であらわしたように、筋肉運動の筋肉性愛を利用する怒り、ばたばたしていることからくる怒りと、良い対象の保持を内に含んだ欲求不満への恨みとに分かれます。Humpty-Dumpty段階ってウィニコットらしいですね。バランスの悪い塀の上にあやうく座るハンプティダンプティの粉々に割れるのではないかという恐怖はよくわかります。しかし83ページのsensuousという単語の決定的誤訳はまずい!!この本は訳が悪くてどうしようもないです。みなさん、ウィニコットの紹介の本、本書と遊びと現実の訳の悪さが、ウィニコットの理解を妨げたと言ってもいいです。この2冊は絶対に英語で読んでください。日本語では理解不能です!環境としての母と対象としての母という概念、そして赤ん坊が環境としての母親へ貢献したいという気持ち、破壊的な観念の同時進行の前向きで創造的な体験、本当に大切な概念です。クライエントの破壊性の一方的な解釈では受け止めきれないクライエントの思いやりの部分を解釈すること、本当に大切なことですね。じゃないと、クライエントは深く傷つきます。自分だけが悪い存在であるということに耐えられなくなってしまうのです。これこそがクラインに失敗であるとウィニコットは言いたいのだと思います、みなさんはどう思いますか?また次回に議論しましょう!(*´∇`*)

 

38回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2012818日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第9〜11章。

内容を元に自由にディスカッションです。第38回は8月第3週になります。

37回の報告:第5章は、まず病理よりも質の豊かさこそが精神分析が求めるものと宣言し、子どもは大人に必要なものを供給されなければ大変な問題を起こす可能性があること、それは時期(あるいは段階か?)によって必要なものが異なることを議論している。 極端な依存の時期に環境が失敗することは大変な問題を引き起こすが、これはほとんど起こらないでしょう。依存の時期に失敗するとそううつ病や反社会的行動ですが、盗みなどはもっと後の段階でも十分起こると思います。依存独立の混合では、すでに自立の動きが芽生えた時の環境の失敗なので、研究会で議論していたのは共依存の問題です。依存の間は愛されても、独立の動きが乳幼児に生じた瞬間に母親が鬱になったり、独立するなら甘えさせないよと脅迫することで、赤ちゃんが偽りの依存の仮面を作り出してしまうことです。本当の依存と偽りの依存ってやつです。母親の罪悪感を自分の罪悪感に取り込むン問題もこのあたりの時期の環境の失敗でしょう。そのあとの依存−独立での失敗が暴力の爆発や反抗というのが、しっかり母親に独立を一度受け止めてもらったのに、それが受け止めてもらえなかったということで、いわゆる生き残らなかった母親への怒りや憤怒なのでしょうか?しかしそれは愛情の裏返しとしてやむにやまれぬ暴力、自分を殴りつけているようなところがありますね。最後の独立までいくと、ようやく環境の失敗から有益さを取りだす能力を子どもが獲得するのですね。第7章も同じような依存と独立との問題を扱っています。しかし98ページの部分、絶対依存の時期が終わりかけると、幼児は反抗に対する報復を知るようになり、それはすなわち母親の小さな適応の失敗に怒ることによって、子どもは何か陽性のものを獲得するようになるということ、その意味で適応過程において徐々に失敗できない母親は別の意味で失敗しているということがみんなの心を打ちました。自分の中にどんな形であれ普通の量の攻撃成分をもっていながら、怒る理由を見いだせない幼児は、特殊な困難、「攻撃と愛情とを融合させることの困難」に陥る。まさに母親は子どもの怒りを出させてあげるために失敗するのである。このプロセスは、母親が少しずつ原初的な没頭から現実生活に戻ることと並行している。この問題は思春期の第2次分離個体化でも成り立つし、もっといえばまさにセラピストークライエント関係でも成り立つのです。セラピーでも絶対依存のような、セラピストがクライエントに100%に近いくらいに適応しなければならない時期と、少しずつクライエントが成長し、偶然、ふと失敗する時にクライエントが自由に怒れる関係こそが、クライエントがセラピストから巣立つ兆候、前触れなのでしょう。大切な治療的展開なのですね。第8章の道徳と教育では、最後の、不良であるということが、将来への希望であるというウィニコットの熱い思いが、全体の教育批判、宗教批判と重なり感情的になっている部分をちゃんと議論しました(;^_^A アセアセ・・・ウィニコットのこの批判精神はどこからくるのか興味深いですね(*´∇`*)また頑張りましょうね〜〜!!

 

38回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2012818日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第9〜11章。

内容を元に自由にディスカッションです。第38回は8月第3週になります。

37回の報告:第5章は、まず病理よりも質の豊かさこそが精神分析が求めるものと宣言し、子どもは大人に必要なものを供給されなければ大変な問題を起こす可能性があること、それは時期(あるいは段階か?)によって必要なものが異なることを議論している。 極端な依存の時期に環境が失敗することは大変な問題を引き起こすが、これはほとんど起こらないでしょう。依存の時期に失敗するとそううつ病や反社会的行動ですが、盗みなどはもっと後の段階でも十分起こると思います。依存独立の混合では、すでに自立の動きが芽生えた時の環境の失敗なので、研究会で議論していたのは共依存の問題です。依存の間は愛されても、独立の動きが乳幼児に生じた瞬間に母親が鬱になったり、独立するなら甘えさせないよと脅迫することで、赤ちゃんが偽りの依存の仮面を作り出してしまうことです。本当の依存と偽りの依存ってやつです。母親の罪悪感を自分の罪悪感に取り込むン問題もこのあたりの時期の環境の失敗でしょう。そのあとの依存−独立での失敗が暴力の爆発や反抗というのが、しっかり母親に独立を一度受け止めてもらったのに、それが受け止めてもらえなかったということで、いわゆる生き残らなかった母親への怒りや憤怒なのでしょうか?しかしそれは愛情の裏返しとしてやむにやまれぬ暴力、自分を殴りつけているようなところがありますね。最後の独立までいくと、ようやく環境の失敗から有益さを取りだす能力を子どもが獲得するのですね。第7章も同じような依存と独立との問題を扱っています。しかし98ページの部分、絶対依存の時期が終わりかけると、幼児は反抗に対する報復を知るようになり、それはすなわち母親の小さな適応の失敗に怒ることによって、子どもは何か陽性のものを獲得するようになるということ、その意味で適応過程において徐々に失敗できない母親は別の意味で失敗しているということがみんなの心を打ちました。自分の中にどんな形であれ普通の量の攻撃成分をもっていながら、怒る理由を見いだせない幼児は、特殊な困難、「攻撃と愛情とを融合させることの困難」に陥る。まさに母親は子どもの怒りを出させてあげるために失敗するのである。このプロセスは、母親が少しずつ原初的な没頭から現実生活に戻ることと並行している。この問題は思春期の第2次分離個体化でも成り立つし、もっといえばまさにセラピストークライエント関係でも成り立つのです。セラピーでも絶対依存のような、セラピストがクライエントに100%に近いくらいに適応しなければならない時期と、少しずつクライエントが成長し、偶然、ふと失敗する時にクライエントが自由に怒れる関係こそが、クライエントがセラピストから巣立つ兆候、前触れなのでしょう。大切な治療的展開なのですね。第8章の道徳と教育では、最後の、不良であるということが、将来への希望であるというウィニコットの熱い思いが、全体の教育批判、宗教批判と重なり感情的になっている部分をちゃんと議論しました(;^_^A アセアセ・・・ウィニコットのこの批判精神はどこからくるのか興味深いですね(*´∇`*)また頑張りましょうね〜〜!!

 

39回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2012929日土曜日16301900

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第1113章。

内容を元に自由にディスカッションです。第39回は9月第4週になります。

38回の報告:第9章は、大人の精神分析で過去を振り返り、乳幼児期に起こったことを解釈することで得られる理論と、実際の乳幼児の観察で得られることとの関係を論じています。より深い解釈とは、より早期の解釈なのか?フロイトは乳幼児観察をしなかった。しかし、大人の分析経験から、口唇期、尿道期、肛門期、男根期、潜伏期、性器期という発達段階を提唱した。しかしこれは発達段階というよりは大人の分析に用いる覚書のようなものだったのではないか。それに対して、ボウルビーの愛着理論やマーラーの分離個体化理論は、実際の乳幼児の問題行動や症状への対処から生まれた。ウィニコットは小児科医から始めたことから、子どもという存在に対する母親の役割を、精神分析を学ぶ前から熟知しているプライドを感じる。もっとも、奥さんの保育士関係の影響もだいぶあるように思われるが。最初に触れているセットシチュエーションはまさにそのような中で生まれたウィニコットの真骨頂であり、別の論文に詳しい。さらに移行対象とは、現実と空想との中間段階を描いたという意味で、フロイトの学説が無意識的空想の研究であったことへの、実際の乳幼児を取り巻く本当の現実の介在を描いていることでユニークであった。幼児が象徴化できるためには移行現象を乗り越えなければならない。移行現象を通して幼児は徐々に深さを持てるようになるのである。深層とはその意味で無意識的空想が深いものであることを示しており、それに対して早期ということは事実そのものなのである。事実として母親がそこにいて抱っこしていてくれたかどうかということと、「母親は自分を抱っこしてくれなかった」という空想との間の差のことをウィニコットは述べている。抱っこされているということを乳幼児は意識することができない。できるのは抱っこされなかったという不満や、抱っこから降ろされたという落下の恐怖や不安なのである。その意識されない抱っこされた経験を、シゾイドとの治療の中で媒地(medium)として問題に出来たのは、「抱えることと解釈」に詳しい。ぜひ論文を読んでみてください。とてもわかりにくいですが感覚としてはわかります!しかし生後数週間で、報復への予期ができるとは・・・・怖いですね。赤ちゃんおそるべしです。でもそうやって報復されることに反応できるというプラスと、反応させられ侵襲を受けると言うマイナスの間の微妙な部分は臨床的にはとても大切なところですね。ウィニコットは、ほとんどの患者が乗り越えている乳幼児期のかすかな環境の失敗へのしるしを感じる感受性が鋭かったのではないかと思いました。自分もそうでありたい。第10章は、潜伏期を描くとともに精神分析のおさらいができます。ぜひみなさんも読んでみてください。子どもとの治療に意識的な連携が必要か、無意識的な連携で十分かということは議論の余地があります。みなさんはいかがですか?遊戯療法でもある程度子どもが自分の問題と来談することのおぼろげな意識が必要ともいえますから。潜伏期は比較的本能が社会科や勉強に利用されることで無力化されているので、神経症や問題行動が起こりにくいとされています。それでも問題が起こるとすればそうとう深い問題が起こっている可能性があります。ウィニコットの言うような精神病的な問題もありますが、もっと家族負因のあるような・・・なぜ潜伏期かというのはリビドーの問題だけではなく、研究会では、親と距離を置いて学校に入ることの緊張の低下を議論しました。

この問題もまた議論したいものです。それでは次回は9月、難しい内容もみんなで読めば怖くない、ぜひぜひまたご参加ください!もうすぐ40回、よくここまできたなぁ!!(*/∇\*)特にこの本は誤訳が多い!!(;^_^A アセアセ・・・

 

40回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20121124日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第1315章。

内容を元に自由にディスカッションです。第40回は1カ月飛んで11月第4週になります。

39回の報告:第11章は、疾病分類についての今までのまとめのような内容でしたが、訳も悪く理解しにくいものでした。しかし、母親の自我支持の要素を赤ちゃんが取り入れていく時に、母親に、乳児を愛するとともに憎む能力が要求されているという点が、よく考えるとあたり前だけど鮮烈なイメージがあります。赤ん坊は母親に無慈悲な怒りを向けるのですが、母親はそれに対する自然な反応として、赤ちゃんを一時的に憎むことが必要です。赤ちゃんは母親の憎しみの反応と、しかし報復してこない様子を見ることで、自分の憎しみについても認めることができるのです。母親やセラピストにはこの憎む能力が求められていると言えるでしょう。また、融合の失敗は個人内に罪悪感のない破壊的要素を作り出すからこそ、対象としての母親は赤ちゃんを憎み、環境としての母親はその赤ちゃんを抱っこします。この破壊性は、赤ちゃんに実在感を与える対象関係の碑石になるということ、生命の流れの中に入ること、肝に銘じたいです。クライエントの無慈悲な破壊性は、クライエントにとって生命の流れ、実在感を与える対象関係になる、だからこそ偽りの事故ではなく、真の自己へとつながるのですね。そのような破壊性ささらされて、憎しみつつ、セラピストとして、母親として抱っこし続けるということが、境界例の治療に必要なのでしょう。この点を事例で時間をかけて議論しました。第12章は、本当の自己、偽りの自己について考えるには大切な論文です。偽りの自己は、環境の反映なので分析できません。分析できないということの理解が一番大切なおんだと思います。本能は、自我協会ができていなければ外側から赤ちゃんを襲い、外傷経験を与えることもあります。偽りの自己が支配的な時は、唯一実在を感じれるのは偽りの自己としてだけであり、真の自己は隠ぺいされてしまっています。真の自己がある程度存在を与えられていれば、秘密の生活が許されます。偽りの自己は、真の自己を表面化させる条件を探し求めますが、それが無理と判断すると、真の自己の破壊を避けるために、自殺という手段を取ろうとします。本当の自己を隔絶〜防ぐための自殺、しヵしそれでは肉体が失われます。しかし自殺年慮そのものは、真の自己の瞬間的現れだと言えるでしょう。難しいですね。偽りの自己は身体性をもたないので、自分の身体感覚はすべて真の自己に含まれます。だからこそリストカットは真の自己を破壊から救う行為ですが、両親への服従が損なわれます。そこにリストカットの複雑さがあります。自殺企図そのものが真の自己の保護であり、隠ぺいであり、出現であり・・・さらに健康なv場合は、偽りの事故は、上品で礼儀正しい社交的態度という、解離されないものとして体験されます。いわゆる病的でない自分を殺すことですね。偽りの自己が病的であり、さらに知的活動が前景にでると二重の異常状態になります。結局は解離こそが偽りの自己を病的に留まらせるものになります。罪悪感を感じないことが解離の証拠となるでしょう。真の自己が本来的であればあるほど、ちょっと真の自己の生活が中断されても、服従を強いられても、耐えることができるのです。偽りの自己は、深い退行の中で、融合の失敗からくる破壊性を表現し、母親的な対象がそれに憎しみで反応しつつ、環境として抱っこして解離が解けるのを待つしかないのです。大変興味深い内容でした。次の逆転移まで進みたかったのですが、議論をしすぎて無理でした。次回は逆転移から始めます。また次の本をどうするか、ウィニコットを続けるか、ウィニコットの関連のケースメントの患者から学ぶシリーズにいくか、マーガレットリトルにいくか、弟子のミルナ―を英語で読むか、今年中に決めていきます。ぜひご意見をお願いします=*-*=にこっ♪継続こそ力なり!!難解な本は皆で読んで読みこなしましょう!

41回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20121229日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第1617章。

内容を元に自由にディスカッションです。第40回は1カ月飛んで11月第4週になります。

ただしこの日程は暫定的なもので、いつも参加しているメンバーの都合が悪ければ変更します。

その時は追ってメールで知らせます。ご了解ください。

また29日に行う場合はそのまま忘年会をしましょう!!(*´∇`*)

40回の報告:第15章は、逆転移についての論文です。特に英国心理学協会の逆転移についてのシンポジウムで、ウィニコットの前にユング派のフォーダムが話した後だったらしく、かなり意識してフォーダムと自分との違いと類似とを検討しているのが面白かったです。おそらく、精神分析の重鎮の前での話なので、ユング派とは基本的に違うという立場を堅持しなければならない圧力の中で、精一杯フォーダムへの共感を述べた論文と言えるでしょう。ユングは転移を、治療に限らずどんな人間関係においても生じること、意識と無意識のモザイクでの対人交流として位置づけましたが、フロイトは常識的な人間ですから、それと真っ向と対立したのです。それがフロイト派の職業意識であり、医師としての責任だと思っていたのです。フロイトはとても倫理的な人でしたから。しかしウィニコットは、小児科医から始めたこともあり、また反社会的傾向をもった患者への共感とから、反s二や会的傾向をもった患者か、退行を必要とする境界例以上の病理の患者に対しては、特別な対応が必要だと述べている。特に反社会的傾向の患者には、患者の最初の母性はく奪をしっかり把握しつつ、非分析的な対応が望ましいことが多い。これは僕の考えとも一致しています。問題行動の生徒に対しては、自由連想はほとんど無駄です。環境調節や、母性はく奪の問題に特定された不安や恐怖について取り上げることが一番大切です。境界例患者にも、逆転移について、解釈ではない反応が大切な場合があるといいます。境界例以上の患者は、自分に向けられた感情が嘘いつわりであると感じやすく、また投影性同一視で、嘘偽りな感情を作り出してしまうことがおおいのです。辟易感を打ち消したやさしさなどですね。だからこそ、Thの解釈半のでない反応に実在を感じることができるのでしょう。その関連で、もうすぐ終わる情緒発達の精神分析理論の後に、マーガレットリトルによるウィニコットの教育分析に関する論文を取り上げることにしました。マーガレットリトルは精神病的な水準でいろいろなことが起こる人でしたから。続いて精神分析的治療の目標の章は、僕の一番大好きな、生き生きしていること、良い状態であること、目覚めていることという目標を取り上げた論文です。これは、大人の心理療法もやはり遊戯療法の要素が必要だと気付かせてくれます。解釈をおこなう理由は、まずは治療者がいつも正解ではないことを伝える意味があるというウィニコットの独特な主張があります。おそらくは魔術的に理解してしまう傾向があったからこそこの発想があるのでしょう。また、長すぎる解釈、多すぎる解釈は、Thの逆転移であることが多いというのは納得できます。でもついつい相手が納得していない時ほど、「ついでに」とか「「さらに言えば」とか言ってしまいますね。気をつけましょう。しかし教育的セッションは必要な時にはした方がいいと思いますが。転移の中にはアンビバレンスだけ見つけたらいいというウィニコットの見解は、まさに遊戯療法出所ンならではですね。夢中になって話すか話さないかという視点だけが大事なのです。あとは病理の理解になってしまう。Thの役割は、病理性をもった環境の代わりに発達促進的な環境を与えるという視点は、修正常同体験とどう違うのだろうとおもいましたが、それはやはり違うと言えるでしょう。偽りの自己による成功は揺さぶらない。大切なことですね。15章は、内容がないので、省きます。クラインとの出会いが良くも悪くもウィニコットを作ったけど、クラインとは断絶してしまったということですね。あるいはクライン派との断絶といった方が正しそうですね。この本はあと1回!!まだまだウィニコットを学び続けましょう。継続は力なり!(*/∇\*)キャ

 

42回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201322日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第1718章。

内容を元に自由にディスカッションです。第42回は2月第1週になります。

41回の報告:第16章は、交流することと交流しないこと、原題はon communication、交流というよりは伝達なのですが、内容的には交流でもいいかもしれません。交流することというのは、対象と関係をもつことと関係している。見つけられるという空想とは、乳児は自分の周りに見つけられるのを待っている対象を創造すること、創造したと感じること、しかし創造するためには見つけられていなければならないこと、このパラドックスが本質的です。一方本能の満足とはむしろその充足に浸りきることで対象が消失してしまいます。だから不満足ということで対象と人は向き合うのですが、それは大変な苦痛を伴います。だから対象と関わるということは大変な負担を乳児に与えるのです。母親(環境との母親という意味から太陽としての母親の間くらいでしょうか)との融合を経験する前の乳児は、環境側の母親との失敗に対して、筋肉性愛的な、感覚運動的な激しい動きによって攻撃しているように見えますが、それは実は苦悩なのです。環境が適切に応えてくれないことへの反応性苦悩なのです。融合が達成されたあとならば、環境の失敗による欲求不満が、乳児にとって自分ではない世界に気づかせてくれる発達促進的な意味をもちます。ところが、融合以前ならそれは単なる苦悶、もだえ苦しみになってしまうのです。融合が達成されなければ、対象の失敗からプラスの内容を獲得できないのです。だから境界例や精神病の患者さんは、本能の満足により対象を喪失する不安から、満足への怯えと忌避を感じるのです。原理的な最初の欲求不満による侵襲に対して、主観的な対象にinsyulateしてしまうのです。ところが、融合が達成された乳児にとっては、対象は自分の欲求を満たしてくれる可能性を保持しつつ欲求不満に向き合えます。そこで攻撃が生じるでしょうが、それを支えてもらった時にはまた信頼が深まります。そこの違いは大きいですね。ウィニコットは、交流しないことの積極的な意義を見出そうと論を進めていきます。単なる交流しないことと、積極的activeな、あるいは反応的reactiveな交流しないことが大切だと言います。原理的な最初の欲求不満を経験して、乳児は本能的に防衛的になり、自分のまったく主観的な対象との袋小路的交流にひきこもります。しかしそのひきこもりを通して、また他者との交流に、あるいは換言すれば戦いに身を投じていきます。それが自分の中核に存在するのです。思春期になれば、そのような積極的に交流しないことが重要性を帯びます。そこに芸術的な要素、言葉遊び、いわゆる移行現象が起こるのです。まるで山中先生の内閉神経症の考えそのものですね。いろいろな事例についても議論し合いました。今年もとても有意義な時間をもてました。来年もぜひぜひ参加してくださいね(*´∇`*)

 

43回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201376日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Winnicott『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版第1920章。

内容を元に自由にディスカッションです。第43回は2月第1週になります。

42回の報告:第17章は、性格障害についてであり、ウィニコットの真骨頂の反社会的成功の起源にある母性はく奪の部分で、白昼夢、うそつき、慢性自慰、寝小便、指しゃぶり、太ももこすりなどが母性はく奪のしるしであるという部分で、みんなで自分の事例に基づいて様々な議論をすることができました。性格障害を、性格の主要な部分は侵されていないのに、反社会的要素で歪曲を被ったという解釈は興味深いものでした。もともと成功している人なので、心理療法がうまくいくと故人をかえって病気にしてしまうという点で、心理療法の倫理性がためされるということになります。患者は転移性の外傷を通じて、期限の外傷に触れるのです。この会は、研究会の半分が事例の話だったり、小学生の強迫性障害のクライエントには認知行動療法の本が役に立つなど、興味深かったです。その本を紹介しておきましょう。ドーン・ヒューフナーの、『だいじょうぶ 自分でできるこだわり頭のほぐし方 ワークブック』明石書店です。僕はもう購入して手にしました!次回はついに情緒発達の精神分析理論の最後です。次はマーガレットリトルの本をする予定です。では次回を楽しみにしましょう!(*´∇`*)

 

45回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2013914日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Little『ウィニコットとの精神分析の記録―精神病水準の不安と庇護』岩崎学術出版第4〜5章。Littleがウィニコットに受けた教育分析の、Littleによる記録です。貴重な記録だと思います。日本の精神分析の草分けの教育分析記録が前田重冶によって公開されたのと同じですね。多分に政治的な意味合いがありますが。、そればかりではないでしょう!精神病水準の患者に対してウィニコットが見せた退行を許容する感覚を学ぶことができます。しかし一度に一人だけしかそのような退行を許さなかったウィニコットの技術は解き明かされるのでしょうか?ぜひ学びたいです(*´∇`*)みなさんも頑張りましょうね!

内容を元に自由にディスカッションです。

42~44回の報告:42回はケースの事例の話、43回は最終章などの話、44回はLittleの本の序章と第1章をやりました。次はいよいよウィニコットの分析の報告です。楽しみにしましょう。

研究会の記録がおろそかになりすみません。 ウィニコットの著作は、ピグルと『遊ぶことと現実』と『子どもの治療面接』を残し、その弟子にしばし浮気です。まさに弟子のMilnerの英語の著作を視野に入れつつ、今後の計画を練っています。いつか全著作を読破できる夢を見て!ずっとついてきてくれている方々本当に心からありがとうございます!(*´∇`*)

 

45回神戸大学ウィニコット研究会延期のお知らせ

本日4時半からの研究会ですが、常連メンバーが参加できなくなり、延期させていただきます。

また日程は追って連絡します。今後ともよろしくお願いします。

今現在ウィニコット研究会は、ウィニコットの教育分析を受けたマーガレットリトルの精神病水準の不安と庇護を読んでいます。

今後はピグル、遊びと現実、子どもの治療面接などのウィニコットの著作にくわえて、ウィニコットの弟子のミルナ―を原著で読むなどずっと続いていきます。今後もぜひ参加してください。ウィニコットは境界例〜精神病水準の患者に対して通常の精神分析的な接近ではない接近の仕方を考えた部分、新生児期〜乳児期の大切さを重要視した部分、環境の重要性を指摘した部分、人生の豊かさを移行現象に置いた部分、治療的退行をコントロールした部分など、特徴的なことがたくさんあります。参加者がそのようなウィニコットたるゆえんを身につけていくことになればと思います。よろしくお願いします。

 

46回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201311月9日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

内容、Little『ウィニコットとの精神分析の記録―精神病水準の不安と庇護』岩崎学術出版第4〜5章。Littleがウィニコットに受けた教育分析の、Littleによる記録です。貴重な記録だと思います。日本の精神分析の草分けの教育分析記録が前田重冶によって公開されたのと同じですね。多分に政治的な意味合いがありますが。、そればかりではないでしょう!精神病水準の患者に対してウィニコットが見せた退行を許容する感覚を学ぶことができます。しかし一度に一人だけしかそのような退行を許さなかったウィニコットの技術は解き明かされるのでしょうか?ぜひ学びたいです(*´∇`*)みなさんも頑張りましょうね!

内容を元に自由にディスカッションです。

42~44回の報告:42回はケースの事例の話、43回は最終章などの話、44回はLittleの本の序章と第1章、45回は2章と3章をやりました。次はいよいよウィニコットの分析の報告です。楽しみにしましょう。

研究会の記録がおろそかになりすみません。 ウィニコットの著作は、ピグルと『遊ぶことと現実』と『子どもの治療面接』を残し、その弟子にしばし浮気です。まさに弟子のMilnerの英語の著作を視野に入れつつ、今後の計画を練っています。いつか全著作を読破できる夢を見て!ずっとついてきてくれている方々本当に心からありがとうございます!(*´∇`*)

 

48回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2014年2月1日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

前回47回の案内を出し忘れて申し訳ありませんでした(;^_^A アセアセ・・・1228日に行いました。そしてリトルの本を終了しました!

万歳!!!次はいよいよ『子どもの治療面接相談』に入ります。いわゆるスクイグルゲームの実践例満載です。発達障害、精神障害、問題行動などいろいろな事例が取り上げられています。

また1223日に行われたウィニコットフォーラムで、川谷先生の境界例の事例はとても興味深かったです。そしてそこで1歳半の頃に妹ができて母親の実家に預けられたクライエントの、母の不在に耐えられなくて“退屈”(ボア)することで防衛した話はとても興味深かったです。まだこの研究会で取り上げていない『ピグル』をぜひ英語でやりたいなと思いました。頑張りましょう!!

前回の内容、Little『ウィニコットとの精神分析の記録―精神病水準の不安と庇護』岩崎学術出版。Littleがウィニコットに受けた教育分析の、Littleによる記録です。最後の方はリトルの中にまだウィニコットへの転移が残っている様子があって恥ずかしかったです!今年も頑張ってウィニコットを読んでいきましょう!(*´∇`*)よろしくお願いします。

 

48回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2014年3月8日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

いよいよ『子どもの治療面接相談』に入ります。いわゆるスクイグルゲームの実践例満載です。発達障害、精神障害、問題行動などいろいろな事例が取り上げられています。第1回目は症例イーロとロビンとイライザです。ロビンまでかな?新版が出て手に入りやすくなってよかったですね。スクイグルの天才的な利用は本書で体験できます。精神分析の深い理解と遊び心と、どちらも発揮できるのがウィニコットの真骨頂です。ぜひぜひ次回から参加の人が増えてほしいです。頑張りましょう!

 

49回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2014412日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例Vイライザ、症例Wボブ

前回の内容:子どもの治療面接相談、症例Tのイーロはとても感動的な内容です。合指症という珍しい遺伝病に罹患した母親は、とても自由に生きましたが、しかし結婚して妊娠するたびに、子どもに自分の病気が移るのではないかと大変な不安を経験し、健常児が生まれる度に安堵します。しかしイーロの時は遺伝してしまい、20分ほどイーロを恨みます。しかし彼に手術を施し普通の指にしてあげる努力を続けることを思いつくことで愛せるようになるのです。そのことを誰にも打ち明けずひとりでずっと抱えた母親と、その条件付きの愛に応えて明るく手術に同意するイーロ、その気持ちをスクイグルという方法でみごとに明らかにするウィニコット。とても印象的な症例です。スクイグルの本書の目的、インテークという1回の面接である程度の治療効果をもたらせないかという試みは、ウィニコットの遊び心と子どもの遊び心との相互交流で生き生きと成功します。僕にとってスクールカウンセラーの臨床の原点ともいえるケースです。子どもと会い、その結果を含めて母親と会い、子どもの状態をぶつけることで母親に変化を促し、1回の面接で一定の効果を得る。大切なことだと思います。次のロビンの症例も、不登校という事態が、末っ子というものが、母親にとって最後の子どもということで母親としてのアイデンティティの礎でもあり、また母親のキャリアを妨げる子どもの幼児性を早く脱却させたいという母親のジレンマにさらされやすいということに気づかされます。子どもも無意識にその葛藤を引き受けて早く自立しようとします。しかし逆の気持ちがスクイグルに現れるのです。ウィニコットは時に決め打ちのように一定の方向に子どもを導き、時に子どもに徹底的に波長を合わせ、時に自分の描きたい描画に楽しんで取り組みます。このスクイグルを楽しめる能力と、子どもの意思にアラートであること、その両者が必要だと気付かされます。次のイライザとボブは大変複雑な内容となります。頑張りましょう!!(*´∇`*)

 

50回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2014524日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例Xロバート Yイライザ Zアルフレッド

前回の内容: イライザは下の妹たちができても嫉妬しない、獰猛さのない子どもでした。ただ1歳過ぎに母から離れた時間の後に現れた帽子の母親を見て帽子恐怖を発展させていきます。そのことがむしろ母親に不安を与えます。この母親の罪悪感と不安の問題が、子どもの悩みを深くしていきます。研究会ではこの問題を僕の症例で検討しました。ウィニコットにとって母親の罪悪感に対して構成される子どもの偽りの思いやりの問題はとても大切なテーマだったと思います。そしてそれは日本人が抱えるテーマでもあると思います。イライザはお母さんが妊娠し妹たちを出産することを巡る問題を、肛門期的な怒りの溜まったお腹理論で理解するのです。イライザの提示するオナニーの問題は日本では取り扱いにくいですが、大切なテーマですね。大事にしたいです。カンガルーって妊娠や出産、セックス、子育て、獰猛さ、ボクシング、キックなんでもいけるんですね。次にボブ、今でいう自閉症すペクトラムの問題を抱えた子どもが実は乳児期から幼児期にかけて母親のうつ病の影響を受けて、病気が深まったという問題です。発達障害の背景にある環境要因は触れにくい問題ですね。ウィニコットは自閉症も乳児期に原因があると考えていたので自閉症という用語を拒否したという議論もあるそうです。しかしこのスクイグルの展開はすばらしいですね!これからもがんばりましょう!(*´∇`*)問題行動のところが楽しみです。

 

51回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2014621日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例Zアルフレッド [チャールズ

前回の内容: ロバートでは、蛸の絵から、蛸が指しゃぶりをしているというウィニコットの発言から物語が展開していきます。このような直感が、楽しく遊んでいる中で働くのはどうしたらいいのかですね!また、火事の悪夢の話から性的興奮や勃起の話になるのも、日本では信じ難く、宝石を盗む盗賊の話から、エディプスの話し、お母さんを愛し穴をあけて侵入したい欲望、そしていつかお父さんのように結婚して子どもを作る話、それができないからピストルを撃ち、赤ちゃんを作る代わりに宝石を盗んだという解釈はなかなかそのままでは日本の子どもには伝えにくいということ、実際に日本ではどうできるかを話し合いました。前回は僕の行った中2の緘黙の女子の例も検討してもらいました。いよいよ第2部にはいり、神経症的な子どもの例です。第3部の非行の子どもが楽しみです。頑張りましょう!

 

52回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201496日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例\ アシュトン ] アルバート

前回の内容: いよいよ神経症圏の子どもの話が始まっています!

 

53回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2014104日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例] アルバート ]Tヘスタ ]U ミルトン

前回の内容: アシュトンの事例では、抽象画で挑戦されたウィニコットが「受容と拒否を同時に」というキーワードを与えたことで、子どもと関われた興味深い事例であり、その話で1回が終わるほどでした。次はもう少し進めるかな?(*´∇`*)

 

55回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2015221日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例]W ]X

もうこの研究会も55回を数えるのですね。考え深いです。子どもの治療面接相談の問題行動の部分です。問題行動のケースに関心がある人は、ぜひご参加ください。

 

56回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2015425日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例]Yピーター ]Zルース

前回の内容:事例セシルは僕個人はじーんと来て目に涙が滲みます。セシルが、お母さんの弟の妊娠で不安定になることで母親はく奪を経験し、移行対象も一度獲得した後で退行し失います。ウィニコットは、親の相談を受けながら、セシルの発達促進的環境である両親をケアします。対象喪失を経験した子どもには退行状態で依存を満たす経験を与える、これこそがウィニコットの考えです。修正情動体験とはまた違う意味で欲望を満たすのです。そしてスクイグルでの二つのリンゴから三つのリンゴ、みっつのおっぱいは凶作の否認だという解釈、セシルはおっぱいを真に実感することで盗癖から解放されました。それにしても、母の口に指をつっこむ=母のハンドバッグに指を突っ込む=お財布に指をつっこむ=鍵穴に鍵をつっこむの同等性は心から感動します。盗みは母のおっぱいを飲むことと等価だったのですね。もともと自分のものが奪われたのを取り返すだけの行為が盗みなのです。社会的には盗みですが心理的には授乳なのです。解離されたものが戻ってくることが行動化がおさまるということなのです。12歳のマークは、さらに思春期の子どもとして解離することで空想することに逃げてしまっています。空想から想像への移行が、解離から抑うつの復活、もっとも苦悩の激しかった過去への立ち返りが起こります。しかもそうなるまでのウィニコットの盗みの少年に対する夢についての説法、夢と同等のものが失われて行動化されたものが盗みだと12歳の少年に熱意をこめて説いて心をひきつけるのがとても人間的だと思います。人間ウィニコットに触れた気持ちです。これからもがんばりましょうね!

 

57回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201566日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例][X夫人 ]\リリー ]]Tジョージ

前回の内容:ピーターは精神病質を背景に持つ男子です。ウィニコットはいつものスクイグルではどうにもならないので、スクイグルは適切な距離を保つためにのみ用います。そして寄宿生活から家庭生活に戻し、退行させ生き直す方針を保護者に納得させます。ピーターはその中で泳ぎ、手伝いをし、楽しみ、良くなっていきます。精神病質は赤ちゃん返りを通して、成熟促進的環境の中で治るのですね。今の日本社会ではなかなか難しいかもです。次のルースは一回のスクイグルできれいに盗みなどが治ります。これが僕らの理想ですね。自分が母親からどんどん離れていく不安と寂しさに立ち返ると人は盗まなくなるのですね。肝に銘じて盗みの子どもにあたりたいものです。いよいよこの本もあと4人分、さみしいです!次はピグルを原文で読む案が出ています。あるいは遊びと現実に挑戦するか、みなさんもご意見もお願いします。

 

58回神戸大学ウィニコット研究会

日時、201574日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例]]ジェイソン X夫人 ]\リリー ]]Tジョージ

前回の内容:X夫人は盗みの経歴のある6歳の子どもを持つ女性です。彼女はそれほど重くない娘を心配してドクターショッピングを繰り返しています。本当のニーズは夫人自身にあることを気づいてもらう必要がありました。彼女は4歳頃実母によるひどい仕打ちで孤児院に引き取られました。そのような経緯から実母に対する大変な不信感と、孤児院に対する不信感に苦しんでいたのです。彼女は赤ちゃんを産むことを望む一方でそれを汚いことと思いこんでいました。そして彼女はよくネズミの悪夢に苦しまされていました。誰にも愛されずに育ったと思っていた夫人は19歳の時に初めてキスをされていらい、セックスを愛情と混同して生きてきました。それは周囲の人には不道徳で経歴もないダメな人に映ってしまい、愛情はく奪の部分を顧みられませんでした。ウィニコットは、ねずみはお母さんのよい乳房と夫人の間にあり、良い乳房にかぶりつきたい衝動として解釈しました。最初は嫌いなねずみと同一視されショックを受けましたが、次第に受け入れ、孤児院に入る前に実母にさしだされたお菓子を思い出し、職員によって家を連れだされる瞬間の記憶を呼び覚ましました。彼女は口唇愛的攻撃性を出した瞬間に実母に捨てられたのでそれを解離しなければならず、それが夢となって外から彼女を襲い、盗みとして行動化されたのです。ジョージは存在しない子どもとして、偽りの自己をもつ少年として治療がほとんど不可能だという事例です。そのような事例で本を終わるということは、まさにスクイグル法の効果と限界を指示したのかもしれません。次回で「子どもの治療相談面接」はいよいよ終わります。次は英語で「ピグル」を輪読します。和訳は高いし訳も悪いそうなのでぜひ英語で頑張りましょう。ペンギンブックすで「the piggle」を購入しておいてください。2000円台で手に入ります。アマゾンですぐ届きますよ。そのあとは「遊びと現実」「人間の本性」と続く予定です。頑張りましょう!!!

 

59回神戸大学ウィニコット研究会

日時、2015829日土曜日16301930

場所、神戸大学発達科学部A303号室

『子どもの治療面接相談』症例]]ジェイソン X夫人 ]\リリー ]]Tジョージ

前回の内容:症例20ジェイソン、ジェイソンの事例はかなり重篤な問題を抱えているが、基本は母親面接の機能が大きかった事例である。母親自身が自分の母親から男の子であることを望まれ、女の子であることでがっかりされ、彼女の人生は男の子として生きることに費やされた。しかし、結婚し妊娠した時に大変な不安に突き落とされる。ジェイソンが男の子であることに大変な恐怖を感じてしまった。その上出産が遅れ、やせ衰えて産まれただけなのに、看護師に「あなたが飢えさせた」と冗談を飛ばされたことで母乳への強迫が生じて、ジェイソンに大変な侵襲を与えた。ジェイソンはウィニコットとの最初の面接で、空想としての爆撃遊びで遊んだ後、悪夢について表現した。自分を食べようとする魚と自分を脅かす地震、そして自殺、自分の首を切り落とすナイフ、そして本当につらかったのは6歳の時、二人の弟がいた時の大変重篤な虫垂炎の手術、お医者さんにお尻に何度も注射され、悪魔の血管から血が流れ、悪魔が火の中を通り抜け家を通り抜けた!!!その悪魔とは医者の注射により体を通り抜けた悪魔として経験された。その時に父親が面会時間の9時まで待っている間に父親の不在に訪れた悪魔であった。でも本当の不在は、その前の13か月の時に最初の弟を産んだ時に母親が感染症のために5週間家を空けたこと、2歳のヘルニアの手術の時に母親が看病に泊まれなかったこと、この2回の母親の不在による問題が、困らせるという」表現とそのあとのその消失という解離によって彩られていた。そして2回目の面接の時に、破砕機で、宝物を見つけ奪う制御できない恐ろしい怪物として表現された、それは怖い父親でもあり、そして最終的に母親を一度も独占できなかったことへの欲求不満と、弟たちへの「あいつらみんな死んでしまえ」という強い殺意だった。相変わらずそのような深い恐ろしい夢を1,2回で取り上げるウィニコットの力量と、絵心、また大切なところで思い切った絵を投げ込むウィニコットの勇気と心意気の話になった。最終的にはやはりスクイグルゲームでどのように本当に遊ぶのかということ、思い切ってセラピストがクライエントのなぐり描きからびっくりするような人間や動物を見て絵を描くことがクライエントを動かすということに到達した。次回からはついにピグルを英語で読みます。参加する人は英語版のPiggleをもってきてくださいね。アマゾンなどで注文すれば2週間程度でつきます。次回は最初のセッションまでの部分を検討します。よろしくお願いします。

 

60回神戸大学ウィニコット研究会

日時、20151024日土曜日16301930

場所、六甲道勤労市民会館5階会議室(JR六甲道徒歩15秒、部屋番号はまた後ほど送ります。まずは日程まで。参加者を増やす苦肉の策です(;^_^A アセアセ・・・)

『ピグル』第1回面接

前回の内容:前回はピグルの奥さんによる序文や友人による解説、ケースの母親からの手紙を読みました。次回はいよいよ第1回面接に入ります。ピグルはまだ2才か月です。On Demandの面接携帯が新鮮です。メンバーの宮川さんが図書館でピグルの日本語の訳書を見つけてくれました。参加者にはまたお渡しします。よろしくお願いします。ウィニコットってすごいですね。研究会の中で事例の検討もしますからよろしくお願いします!!

 

61回神戸大学ウィニコット研究会:日時、2015126日日曜日9301200場所、六甲道勤労市民会館5階会議室(JR六甲道徒歩15秒、部屋番号はまた後ほど送ります。まずは日程まで。参加者を増やす苦肉の策です(;^_^A アセアセ・・・)

『ピグル』第2回面接前回の内容:第1回の面接、いつものようにクマのぬいぐるみとピグル自身のテディベアをうまく用いて関係を作ります。そして次から次へと電車で遊ぶことを、次から次へと赤ちゃんがやってくることに喩えるウィニコット。それに乗る2歳過ぎのピグル。まさに臨床とはセラピストとクライエントで作り上げる物語なのだと思います。車軸が電車のどこからくるかを、赤ちゃんはどこから来るかという話に持っていき、悪夢の次元に誘い、すかさず悪夢の話をして、乳母車を導き出します。まさに黒の母、黒のピグル、などの母胎である乳母車。おそらくこれを中心に巡るのでしょう。悪夢の次元のあと、急に不安になり両親に会いに行くピグル、その時にすべてのおもちゃをちゃんと片付ける、そして自分のテディも置き忘れかねないことになる。それが持つ意味は何でしょう?母からの、そして父からの話により、生後6か月の突然の父親への情熱と、母親への高圧的態度、そのあとの父親へのよそよそしさと母親への親密感、何が起こっているのでしょう?黒はまさに憎しみが入り込んだしるしなのでしょうか?エディプスがあまりに早期に訪れることで、父親への愛着が、母親が主観的対象でるのと同時に来る混乱、母親への攻撃性と罪悪感、大変興味深いテーマですね。境界例の理解にもつながるかも。第2回の面接が楽しみです。みなさん、頑張りましょう!!(*)

 

62回神戸大学ウィニコット研究会:日時:2016110日日曜日9001200場所:六甲道勤労市民会館5階会議室

内容:『ピグル』セッション3

今回の内容:セッション2:ピグルの第二セッションは、電車電球から始まり、「おえっとさせて」からババカーが出てきた時、ウィニコットはリスクを冒し、「それはママの内側で、そこから赤ちゃんが出てくる場所なんだね」という解釈から物語が進行していく、バケツは物でいっぱいになり何かがこぼれ落ち、それがおえっとすることだという流れから、「ウィニコットはピグルの赤ちゃんで、欲張りで、お母さんであるピグルのこと大好きだから、食べ過ぎておえっとなっちゃう」というプレイを展開していく。読んでいてとてもスリリングで、プレイフルで、ウィニコットを思わせるとても感動する流れでした。そのあとの顔遊びは、まるでお母さんピグルが赤ちゃんウィニコットをあやしているようで面白い。ウィニコットとピグルの間に、動物を貪る柔らかい動物が、移行現象のひとつとして現れるのは、ウィニコット理論の勉強になります。特に、プレイの終わりにおもちゃをひとつ持って帰りたがるピグルに対し、持って帰らせない枠を守るセラピストが、ピグルにとっては貪欲で欲張りな赤ん坊として映るというのはとても面白く、それを理解して、父親の前であっても演じきるウィニコットに真骨頂を見ました。とても面白いですね。やはりピグルを読んでよかったです!また、母親の黒い側面、黒い母親の実体的側面も議論になりました。ピグルの抱える罪悪感は、ピグル自身の罪悪感ではなく、母親に植え付けられた罪悪感なのです。嘘をついたり、盗みをした時の母親の剣幕を考えるとよくわかります。

 

63回神戸大学ウィニコット研究会

日時:2016220日土曜日17001930

場所:六甲道勤労市民会館5階会議室A

内容:『ピグル』セッション45

今回の内容:セッション3:彼女はすでに精神病的な様相からは抜け出していた。面接に入る時に、かなり揺れ動いている様子でなかなか面接室に入らなかった。パパとも離れたがらない様子なので、父親は同じ部屋のカーテンに仕切られた面接室の椅子に座ってもらった。ウィニコットが貪欲な赤ちゃんになった前回の流れが残っており、口では怖いからしないでといいながら、同じプレイを望んでいた。父親は、ガブリエルを頭の上に持ち上げてもらうゲームの時に必要だった。彼女はウィニコットにいらいらピグルをさせて、その中で、怒ったピグルが目を瞑ることで、ママが真っ黒になるという意味で黒ママの存在が明らかになった。黒ママはピグルを食べてしまいかねない貪欲さを兼ね備えていた。ガブリエルは何かに挟まって黒くなった指を見せつつ、ババカーはぶりぶり赤ちゃんと関係があることがわかってきた。彼女は第3回でようやく遊べるようになってきたこと、その意味で病的な存在であることから抜け出したこと、父親に母親が赤ちゃんをあげたことへの嫉妬から、目をつむり、母を黒くしたという理解が得られた。このようにウィニコットのピグルとのプレイは別の次元に移行したみたいです。第4回、第5回が楽しみですね!(^ ^)連絡が当日になり済みません!!!^^;

 

64神戸大学ウィニコット研究会

日時:2016410日日曜日10001200

場所:六甲道勤労市民会館5階会議室A

内容:『ピグル』セッション6

今回の内容:セッション45:4回目のコンサルテーションでは、ロンドンへの電車の中で父親に甘えまくり、親指をしゃぶりながら膝の上で丸くなる退行的なピグルのことを面接後伝えてもらうことに加え、ウィニコットに対する恋愛性転移のようなもの、ナイチンゲールの歌に象徴される肯定的、また性的な転移が問題になる。ウィニコットも「あなたはずっと僕を求めていたんだね」という直接的な表現で扱い、新しい赤ちゃんができたことをピグルが怒れば怒るほど、ママも不機嫌になり、黒ママになることが理解された。そのような中で、ピグルは大きくなり、素敵な女の人が赤ちゃんを迎えに来る一方で、黒ママはNaughtyになるのである。また不安の高くなったピグルは帰りたがるが、パパをプレイに参加させることによって、パパにベタベタ甘える役をしっかりと引き受けさせ、父親の体力ギリギリまで、スキンシップを伴う父親への強い愛情表現を表出させ、ウィニコットを怒ったピグルに、ピグルを母親の代わりに父親から生まれてきて、新しい赤ちゃんピグルはお父さんに甘えまくり、ピグルであるウィニコットは、そのようなピグルを見て怒っている役を割り当てられた。乳幼児の発達における尿道や性器という身体性の意味は大変大きく、口唇期における乳房と乳首、尿道期における破壊性と不安、性器期におけるペニスと女性期、自慰=オナニーの問題は深い。第5セッションでは、ウィニコットの実際の年齢を尋ねるくらいにセラピストの現実性ともふれあいを始めている。冷房のない夏は2人を疲れさせ、どちらかというと記録も短い。本人の巻き毛の問題が大きく、ママの乳房から父のペニスへの変更が生じていて興味深い、内容はどんどん進んでいるので、今度こそ参加してくださいね!!!^^;

 

65回神戸大学ウィニコット研究会

場所:勤労市民センター会議室(またはメンバーの1人である長川さんのAC 中之島心理オフィス(http://m.ac-nakanoshima.net

次回内容:ウィニコット「ピグル」第8セッション、第9セッション

今回の内容:第67セッション:前回第5セッションの突然の年齢の指摘やウィニコット夫人への言及など、現実への意識が芽生えた中で、第7セッションでは、ウィニコットの直感により、今日はピグルではなく本名であるガブリエルと呼ぶ必要があると判断した。その後の母親の手紙によればその判断は正しかったのであるが、今までの対象としての、あるいは自己対象としてのピグルから、主体としてのガブリエルが現れたために、セラピストもそのようにピグルを扱う必要が必須であったと言える。発達的にも3歳が近づき、部分表象から全体表象への移行が考えられること、また治療上も融合しやすいピグル(あるいはむしろ母親が融合しやすいと言えるかもしれない)の治療における成果とも言える。赤ちゃんでもママでもなく、ガブリエルであるという自覚が現れつつあると言える。「私」と「私でないもの」の自覚は、治療の瞬間に印象的に訪れ、それはまたウィニコットもピグル自身としてだけではなく、ノットピグルとして存在し始めるということでもある。研究会での議論は靴や靴下を脱いだり履いたりということのオンーオフが何を意味するかに前半は集中した。靴下の穴から現れた踵が乳房であるというウィニコットの解釈だけではなく、存在‐

非存在のリズムを遊び切ることの意味が議論された。

そのようなピグルの成長にも関わらず、相変わらず母親は不安に苛まれ、その母親に影響を受けて黒いママの復活など、ピグルの成長が様々な影響を引き起こしているとも思われる。第7回の面接では、ガブリエルは黒ママを否認しながら肯定する混乱の中で、S字カーブをいろいろな局面で作り、前回との間に3ヶ月も空いたことへの抗議や、直接的なウィニコットへの攻撃性の表出、しかし、ピグルの貪欲さは食欲へと成長:変化し、ウィニコットが別の存在であることに耐える兆しと、そこから生じる様々な感情や怒り、不安を、超自我によって防衛することを覚え、片付けることにより外的対象をコントロールするすべを得た。今後セッションがどの方向にすすんでいくのか楽しみである。ぜひご参加ください!(^_^)

 

66回神戸大学ウィニコット研究会

201661213001530

場所:AC 中之島心理オフィス(http://m.ac-nakanoshima.net

次回内容:ウィニコット「ピグル」第10セッション、第11セッション

今回の内容:第8セッション。徐々に妹のスーザンへの攻撃性が高まりつつある中、nastiness(汚らわしさ、不快な性質、意地悪、悪意、卑劣さによる敵意、汚染されたうんざりする誇りとゴミによって特徴づけられた状態)の存在について解釈していく。ウィニコットの電車はどこ?ガブリエルの内側かな?と呼水をかけるウィニコット、兵隊を押し潰したあと、「スーザンって嫌な子(nuisance)、邪魔する、新しい赤ちゃんが欲しい」と興奮するピグル、妹も自分もイライラしてパパ、ママを困らす。ふとピグルが曲がった木で出来ていると言うとウィニコットはそれを童謡に関係付けて曲がった男が作ったあらゆる曲がった物に結びつけていく。曲がった(crooked)は、単に物理的に曲がった川などを指すと同時に、指を曲げた盗人、コソ泥から心の曲がった、不正なものも表す。この時にピグルはプラスティックの人形を食べていたことから、ウィニコットを食べて外から取り去り内側に持って行って仕舞えば、ウィニコットが行ってしまっても平気という解釈をする。これがコメントの2番、取り込みとその結果による喪失の取り扱いの始まりという感動的なことを指しているという。内的対象は取り込まれ不安の源泉ともなるが支えも提供するという二重性が研究会では議論された。ママが年を取ると自分も年を取るという話し、パパがピグルに行って仕舞えばいいと思っていると言う空想から、黒いスーザンが大嫌いで大好きというアンビバレントの保持へと進む。泥遊びの大便性の話から、ママはスーザンが一番好きという大変不快な内容をさらっと語るピグル、そしてピグルは不安が高まったのかパパのところに行くが戻ってきたピグルにあと5分、ドアをバンと閉めて!と初めて枠付けをするウィニコットが特徴的でした。服がいっぱいで暑すぎてと服を脱ぐ話をするピグルを、赤ちゃんの裸か性的な意味の裸か議論になりました。みなさんはどう思いますか?最後にとっちらかってごちゃごちゃになった部屋を「これ私に片付けて欲しい?」と勝負をかけるピグルにウィニコットはもちろん「私に任せて」と、ピグルのごちゃごちゃで汚らしい不正な部分を認めて帰してあげる。第9セッションは、ますます部分のバラバラをまとめ上げる遊びをしつつ、黒ママが登場し、ピグルのベッドを奪い、自分の娘の世話をしないことを咎めるピグル、自分の世話をしない黒ママをスーザンの世話をしないという言葉で語るなど、スーザンに投影された自分自身がずっと現れつつ、ここでピグルが深い過去のトラウマ経験の真っ只中に入る。ピグルをベッドから追い出し、ピグルのベッドを奪う黒ママ、これはスーザンの誕生により自分のベッドを奪われたピグルのことを表すのか、ママに起こるピグルの、怖い女の子、死んでるピグル、赤ちゃんを知らない黒ママ、そのような過酷な状況の中で、ピグルはスーザンを世話するママを作るしかなかったのである。その経験の場所にいたのはなんと妹が生まれる前の、良いママとの接触の経験であり、黒ママは良いママが失われたという意味での良いママを表す対象でもあったのである。とても感動的な場面です。普段の臨床でもこんな感動の場面にいたいものですね。そしてその後にもっと深い場面になります。その場面が近づくと眠気にウトウトするウィニコット、その眠気に浸り、その眠気はピグルの引きこもりと投影されたそれを受け取るウィニコットによって作られたのであるが、虎で開いた目の後に飛び込んできたのは、内的現実の代わりに夢について語ることだった。夢の中でピグルは銃を持ち、黒ママが現れた瞬間だった。ウィニコットはその黒ママが現実のママであって欲しいか、夢の中であって欲しいか尋ねた。黒ママと関係する新しい不安が登場し、黒ママが夢の中で死んでいたということを語った後に、青い洗顔瓶を手に取り、口に入れたり出したりしながら、しゃぶっていた。それが口唇的なオーガスムを表していた。「私は黒ママが好きだった!誰が黒ママを撃ったの?大好きだったの。」ついにピグルは黒ママへのアンビバレントに耐え保持したのである。深い感動に包まれますね。そしてこの回は、不安に脅かされ早く部屋を出ることなしに、面接の最後の時間までいたのである。またぜひ次回も頑張りましょう!本当に勉強になりますね。

 

67回神戸大学ウィニコット研究会

201671617302000

場所:勤労市民センター

次回内容:ウィニコット「ピグル」第12セッション、第13セッション

今回の内容:第10セッション。ガブリエルは対象をオーガスム的に口にすることを、前回の洗顔瓶の愛撫の継続で楽しむ。ガブリエルがウィニコットの誕生日を聞くと、すぐさまウィニコットはそれを往生日(death day)と変換し、ウィニコットへの攻撃性による死、あるいはウィニコットに会えないことによる死を連想させる。それは前回に最愛の黒ママの射殺による死を思い起こさせることでもある。さらに口唇的サディズムへの報復恐怖が現れ、噛んでくる蛇への恐怖を語る。何かを壊したくなる衝動を語り、さらにガブリエルはマスターベーションに向かうとともに、おもちゃをばらばらに離して置きつつ、ウィニコットの膝に触れたり、靴を愛撫する中で、愛情ある接触によって生じた不安への防衛として、対象を離しているとし、様々な種類の罪悪感、スーザンがいない、スーザンを置いてきてしまった罪悪感、発見された対象を破壊することについての罪悪感が現れ、その背景には自らの口唇サディズムによって食いちぎられた対象の部分部分からなる内的な混乱状態があるとした。そこから原光景の、パパがママの上に乗り、長いものをママの毛が生えているところに入れる話、成功を邪魔する空想、それを「愛に関係する何か」と名付けてあげるウィニコット。再びガブリエルは自らの破壊的衝動を表すのにスーザンを用い、柔らかい犬のぬいぐるみのお腹から、中に入っていたおがくずを押し出していくという破壊的行為に耽る。それは腸のファンタジーから来る、肛門期的な、お腹の中にある臭くて、汚いものをすべて出してしまう快感と、パパとママのsexから赤ちゃんを産む快感との混同が見られる。ガブリエルは最後はすべてひとつにまとめ、ミルクと食べ物をあげて優しくしてあげてと言って帰って行った。第11セッション。ガブリエルは、オプトレックス社の洗顔瓶とウィニコットを同一視することによる転移を表現しつつ、すぐにパパの長いものという性的な空想に進んでいき、前回に続き、ぬいぐるみの中の詰め物をすべて出してしまい、床をめちゃめちゃにする遊びをした。ガブリエルは、3歳の子供にしては豊富な知識を用い、女の人には穴が二つあり、ひとつがオシッコの穴、もうひとつが赤ちゃんのための穴であり、パパは女の子の穴の方にオシッコをするというイメージを持っていた。ウィニコットには乳房がなく、オシッコをするところがあるということから、乳房みたいにオシッコをするところとして、男性がオシッコをするところを持っていることに怒っているように見えた。それをウィニコットはきれいなペニス羨望の事例だとした。終了時間を過ぎても帰りたがらないガブリエルに、ウィニコットは、まとまった解釈を行った。「男の人は、お母さんから乳房を盗む泥棒で、その盗んだ乳房で長いもの、オシッコの出るものとして使い、強盗は女の人の赤ちゃんの穴に入れて、赤ちゃんをそこに植え付ける。」この解釈で研究会でもいろいろな議論が起こった。ピグルにペニス羨望がある理由とか、なぜ男は乳房を盗んでペニスにするのかということである。しかし、ピグルが女の子だからこそ、一番根源的なものはおっぱいであり、乳房からペニスが作られ、そのペニスを持ちたいと一時は思うけど、最後は自らに乳房が現れることで解決を迎えるという展望が含まれていると思うと、ストンと落ちた。あと2回でピグルも終わるので、次回の本も含めて検討中です。頑張りましょう!

 

68回神戸大学ウィニコット研究会

2016821日日曜日9301200

場所:勤労市民センター会議室

次回内容:ウィニコット「ピグル」第14セッション、第15セッション、第16セッション

今回の内容:第12セッション。ガブリエルは、すでにウィニコットと抑うつ段階に達しており、その愛着の元、1人で居られる能力を発揮し、ウィニコットにより備給されたエネルギーにより自由に遊ぶことが出来ている。ガブリエルはより自由に本能的になっていた。もともとガブリエルは早くから父親には愛着を示していた過去があり、妹の出生を巡りすべてが生じていたということは初回の前の母親からの手紙で明らかです。いつもの電球がその時々に重要な存在として現れるのは面白いです。マスターベーションから、黒いものについての大切な言及がされる。黒は不在の象徴であり、嫉妬や怒りの象徴であり、見えないことの象徴であると共に、数回前の妹の出生前に母親への愛情、口唇愛に包まれた愛情の象徴でもあるということも踏まえているので、不在でもまた必ず戻ってくることへの信頼の象徴でもあるのです。だからウィニコットは真っ黒になっても、また面接に来れば白くなるということへの信頼があるのです。分裂妄想体制とは全く違いますね。仔羊の腹部を押したり、他の動物の中身をすべて出しつつ、以前中身を出して空っぽにした犬に言及した。その犬は修繕されないまま袋に入っていた。ここはとても不安な状況でしょう。ウィニコットの解釈は、ママならママの体内に入り込み中身を食べ尽くし空っぽにしてしまう貪欲さであり、パパならパパのおちんちんを食べ尽くし中身を空っぽにして赤ちゃんを作りたいということだという。パパを独り占めにしたい一方で、そうなるとおちんちんを食べ尽くしたくなる恐怖が来るのです。するとスーザンも嫉妬してくる不安が来るのです。部屋における鍵をかけて自分を追い出しちゃうこと、鍵をかけて自分が閉じこもること、鍵をかけてウィニコットを閉じ込めておくこと、その鍵をカバンに持っておくことなどのテーマが流れるのがとても印象的です。プレイでもよくセラピストが追い出されたり閉じ込められたりすることを議論しました。そしてその回の後の母親の手紙にある衝撃的な事実、母親には大嫌いな弟がいて、弟が生まれた時はスーザンが生まれた時にガブリエルと同じ年齢だったこと、だから母親はガブリエルの位置でスーザンの出生を恨み、妬み、呪っていたこと、立場を変えればガブリエルは母親の不安と共揺れを起こしていたことがわかるのです。先生の夢を切るためのナイフをウィニコットに送るのも興味深いですね。第13回セッションはもう終結に向けての回になります。スーザンが唇を怪我をして治ったが自分は治っていないと言いつつ、ウィニコットを独り占めにしたい思いはとてもストレートに現れます。微笑ましいですね。壊れても自分で修理できる話、修理をするウィニコットはすっかり内在化され、自分の能力に根付いています。終結を巡りもう会えなくなる悲しみもしっかりと体験できています。終結のプロセスの大切な部分ですね。今までは治して欲しいから来ていた、今は来たいから来ている、転移の残りと、主訴の解消の遊戯療法における確認ですね。勉強になります。卵の形の肖像画から、自分の居場所がわからなくなるとバラバラになってしまうけど、ウィニコットが置いた卵があるから体験がコンテインされまとまって体験されることの確認がなされる。ウィニコットは修理人であり、料理人であり、教える人であり、遊ぶ人であり、最後はガブリエルが動いた時にぶつかることで自己と非自己を区別できる存在としてのウィニコットが確認される。特に遊ぶことが重要なことは言うまでもないですね。もうピグルは次回が最後です。本との別れも寂しいものですね!次回の本は「改訂版 遊ぶことと現実」です。いよいよ後期にとりかかりましょう!

 

69回神戸大学ウィニコット研究会

20161016日日曜日9301200

場所:勤労市民センター会議室

次回内容:ウィニコット「ピグル」ピグルの両親によるあとがき 改訂版「遊ぶことと現実」第1章移行対象と移行現象

今回の内容:第14セッション。この回から今までのセッションの振り返りの内容が増えていく。dat derは、that thereの幼児語であり、ピグルが赤ちゃんに返っており、超自我と欲動のぶつかり合いを呈し、ウィニコットに欲望のままでいいと言葉をもらってワークスルーし安心する。ガブリエルは第10セッションのように意図しないように見せる身体接触をして、以前犬の中味を全部出してしまった自らの破壊的行動を忘れているかのように「犬に何があったの?」と聞きつつ、逆にすべてをわかっているように、「犬をまだ直していないの?ダメなんだから!」とウィニコットを叱る。そしてガブリエルは円筒定規をウィニコットに転がしてウィニコットを殺し、ウィニコットは死んで彼女が隠れて、ウィニコットは彼女を見つけることが出来ないという遊びを何度もする。これは失うという悲しみと関係している遊びだが、完全に失わないようにちゃんとコントロールされていた。まさに終結の練習であろう。ピグルはウィニコットを一人占め出来ている時に心から幸せなのである。彼女は出産され、大きくなり、赤ん坊が大きくなると母親は押し出したくなり、それは赤ん坊にとって悲しみのことなのである。すべては象徴的に彼女のセッションを通しての成長と終結を表していた。第15セッション。再びウィニコットは何度も殺され、かくれんぼ遊びになる。エロティックな誘惑のダンスの後で、興奮の後に、セッションをまとめ上げる印象的な夢をピグルは報告する。ピグルはすべてを転移に持ち込み、主観的な分析家との陽性的な体験を通して人生を再編成した。そして作り上げた父親像をねじってねじってウィニコットに悲鳴を上げさせる。そうして理想的にウィニコットを大嫌いになり、ウィニコットは使い尽くされてなくなってしまい、セッションに来る意味がなくなるのである。セッションの重要な場面で使われたオプトレックス社の洗顔瓶が出てきて、ウィニコットの墓碑も作る。第16セッション。ウィニコットを殺すいないいないばあのかくれんぼをして、最後にガブリエルを見つけることが出来る。もうすでにコミュニケーションとしての遊びではなく、以前こんな遊びをしたなという振り返りを遊び、そして最後にウィニコットに絵本を読んでもらった。最後に一番恥ずかしいのはピグルがウィニコットに愛していると言いたい時だということを確認して終了した。2歳4ヶ月から5歳の間にピグルはon demandにウィニコットの元を16回訪れて、黒ママやババカー恐怖を解消し、終結を迎えた。on demandの良さは、両親は子供を治療者に取り上げられる恐怖や不安を感じることなく、きちんと子供を育てることが出来ることだろう。幼い子供の表現する内容にウィニコットが戸惑いながらきちんと向き合い受け止める様子は感動的でした。また何度も読み直してみたい本ですね。次はついに改訂版「遊ぶことと現実」で後期著作と向き合おうと思います。難解ですが頑張りましょう!!


70回神戸大学ウィニコット研究会

20161119日日曜日17302000

場所:勤労市民センター会議室

次回内容:改訂版「遊ぶことと現実」第2章夢を見ること、空想すること、生きることー一次的解離を記述するケース・ヒストリー クライン「著作集1子どもの心的発達」第1章子どもの心的発達

今回の内容:ピグルの両親によるあとがきは、ウィニコットの死後、本書の出版に向けて書き下ろされたものであり、ガブリエルが気取らず自発的な少女になり同世代に馴染んでいること、オンデマンド法が両親にとってはプライドを失うことなくガブリエルを育てることができた利点を振り返っている。ウィニコットの死についてもガブリエルは動揺せず、ガブリエルはウィニコットがずっと治療中自伝を執筆していたと思っていたことを書いている。ウィニコットにとって死の数年前の自分の治療方法を確認するような出会いだったのであり、その意味でガブリエルの記録はウィニコットそのものの記録でもあったという意味ではガブリエルの直感は正しかったのではなかったかと思う。実際治療の途中でも体調を悪くすることもあったウィニコットにとって、ガブリエルとの別れはしっかりと脱錯覚をして迎えなければならないという思いは強かったのではなかったかと思う。その意味で最終の2回は感動的とすら言える。続いて改訂版遊ぶことと現実の第1章、移行対象と移行現象である。昔から何度も読んでいるが徐々にわかりやすくなっているように思う。ウィニコットにとって以降対象が、赤ん坊が母親という実体への依存を少しずつ低下させ、心的な内的自立を獲得するまでの中間段階に必要な物理的背景のある対象というものが必要だったのである。その意味で移行対象は理想的には母親そのものよりも大切なものになっているのである。だからこそ母親は無意識に嫉妬して移行対象を子どもに黙って捨ててしまう誘惑にかられるのかもしれない。最初の私でないものが、赤ん坊が吸う親指の他の指が移行対象になっていくプロセスは感銘を受ける。また音や喃語、音楽的音も移行対象である。母親の体の一部も移行対象になり得るのも面白い。移行対象は、ウィニコットによる子どもの発達を支える対象なのである。ウィニコットの理論は、最初は無慈悲であった赤ん坊が、環境が無慈悲に耐え抜き生き残ることで、慈悲心が生じるのであるが、その攻撃を受けることもあるのである。以降対象があるが十分なコミットがなく母親に固着していると移行現象として十分機能しないということは確かにと思う。また最後のシゾイドのクライエントの、ギャップ(死、不在、健忘)そのものが唯一リアルなものとして機能するということは本当に震えますね。なかなか2本の論文を1回の中でこなすのは大変ですが、しっかり勉強していきましょう!

71回神戸大学ウィニコット研究会

20161217日土曜日17302000

場所:勤労市民センター会議室

次回内容:改訂版「遊ぶことと現実」第3章遊ぶことー理論的記述  クライン「著作集1子どもの心的発達」第1章子どもの心的発達

今回の内容:今回は予定ではクラインもするはずでしたが、あまりにウィニコットの第2章が大事そうでケースとしても面白いということで、この2章だけ議論しました。ケースは中年期の女性で、空想すること、白昼夢を見ることに類することが生活に支障をきたすことを徐々に発見し始めたところです。ある意味病理としてはほとんど表面化しておらず、潜在化してしまっている、想像することがまったく動かず空想することでのみ身を守っている人、偽りの自己で固めてしまっている人です。彼女はごく早期に空想パターンが確立しており、抑圧というよりは解離が支配的です。彼女は中年期の課題を抱いています。芸術的自己表現に卓越した才能を持っているが、人生で機会を逸しつつあり、自分自身や家族の失望、本質的不適格さから強烈な悲しみと憤懣により自殺の危険もあったと言えるのです。ごく早期に母親との関係で満足から脱錯覚や絶望へと突然変わってしまい、父親の修正も不十分だったと言います。年長のきょうだいとの関係も追従のみで適応してしまい、関わることから退いてしまっていました。現実への適応は、現実から内面が影響を受けないパターンを作り上げることでのみなされ、こんなはずじゃない、全体存在になっていないという感覚であった。彼女の存在の主要な部分は何もしていない時、親指しゃぶりが偽装された喫煙や退屈なゲームでありその不毛な活動は何の喜びも与えなかったのです。そのような時に彼女は2つの夢を見ました。ひとつが彼女には10歳の女の子の子供がいて、自分がダメ男と婚約している。2つ目がその1週間前に見た、母親が彼女から子供達を奪ってしまったので母親に強烈な恨みを感じている夢。彼女は自分の母親への愛情深い思いに対立するこの夢に戸惑ったが、セッションが開始して1時間半後に彼女は初めて感情に気付き始めて、2時間目に母親に対する殺意に近い憎しみ、ダメ男である父親との間に子供を作ったことで母親に殺されるという気持ち、この瞬間にまさしく夢と人生を始めて扱い、空想の中で迷子になっていなかった。その次のセッションで、ウィニコットが空想することが夢を見ることをいかにじゃなしているかという見解に対して、患者は真夜中に目が覚めて、取り憑かれたように服の型紙に専念。裁断し設計した。そしてセッションではウィニコットに、「これは夢を見ること?空想すること?」と突きつけるクライエントに、ウィニコットはちょうどそのボーダーだという意味で「私たちにはわかりませんね」と言った。ここで「それは夢を見ることになっています」と言ってしまったらきっとクライエントはウィニコットに追従するしか無くなってしまい台無しになってしまうんだと思います。まさに心理療法の中での頂点の瞬間ですね。この時クライエントはウィニコットに殺されそうになりながらウィニコットを殺害したのだと思います。その時の実際に裁断したという行為が精神身体(psycho-soma)が関わっているのです。偽りの自己の状態のクライエントにとって精神身体を伴った怒りと憎しみを経験し、セラピストが生き延びる経験がいかに重要かわかります。それでは次回は理論的記述地クラインです。頑張りましょう!!

 

72回神戸大学ウィニコット研究会

2017121日土曜日17302000

場所:勤労市民センター会議室

次回内容:改訂版「遊ぶことと現実」第4章遊ぶことー創造的活動と自己の探求  クライン「著作集1子どもの心的発達」第9章エディプス葛藤の早期段階

今回の内容:第3章遊ぶことー理論的記述では、心理療法がまず患者の遊ぶことの領域と、セラピストの遊ぶことの領域という、ふたつの遊ぶことの領域の重なり合いの中で起こるというウィニコットの主張から始まる。患者を遊べない状態から遊べる状態へともっていくことの重要性である。また遊びとはマスターベーションとは正反対のことである。遊ぶときには本能的関与の身体的興奮は現れていない。今まで精神分析家は遊びの内容を検討して来たが遊ぶことそのものを研究することにおろそかだった。ウィニコットはそこを最も問題にする。事例エドマンドはとても印象的である。母親面談をしながらウィニコットはエドマンドが母親が説明した通りのことを遊びで、移行対象を使いながら説明したと受け取った。エドマンドが母親の乳房じゃないと気が済まないこと、母親への依存がある一方で紐は母親との分離も象徴していること、などがわかった。ダイアナは、母親が病気の弟について気に病んでいて、あまりに不安が強すぎてダイアナを連れて来なければならなかったということが、ダイアナの様子と母親の様子でわかった。ダイアナは母親の悩みに巻き込まれ、母親の病気の息子の世話の責任を引き受けることまで同一化する能力があることを示していた。遊びの理論として、赤ちゃんと対象は互いに融合し、主観的であること、対象は拒まれ、再受容されて、客観的に知覚される。母親が赤ちゃんの能力で見いだせるものであり、見出されるものでありながら彼女自身でもあることの間を行ったり来たりし、赤ちゃんは魔術的コントロールの体験をいくらか持つことができる。それが万能感の体験。遊びがエキサイティングなのは本能が関与しているからではない。遊びは常に、パーソナルな心的現実と、現実の対象のコントロールの体験との相互作用の不確かさである。次の段階が誰かがいるところで1人でいることである。その次の段階は、赤ちゃんはふたつの遊びの領域の重なり合いを許容し、楽しめるということである。重要な瞬間は子供が自分で自分に踊り区ときである。決して分析化学賢い解釈をする瞬間ではない。ウィニコットの述べていることは曖昧でルーズだが、いわゆる解釈の効果ではない、遊ぶことのそのもののエキサイティングさをものがったっている。遊ぶことと現実の本質は、母親の子供へのチューニングと子供の万能感の体験は必ずすれ違ってしまうのだが、万能感の体験にもなっていること、そのすれ違いの中に遊ぶことのゆとりがあるのだということだと思う。

 

73回神戸大学ウィニコット研究会

201734日土曜日17302000

場所:勤労市民センター会議室5

次回内容:改訂版「遊ぶことと現実」第5章創造性とその諸起源  クライン「著作集1子どもの心的発達」第9章エディプス葛藤の早期段階

今回の内容:第4章遊ぶことー創造的活動と自己の探究は偽りの自己を抱えた不思議な女性との面接のある局面である。もともと週5回を基本とした精神分析を6年間受けて来たが、クライエント自身が1回のセッションに無限の長さが必要と気づいたということで、ウィニコットはそれに答えて週1回なら無限の時間を提供できるとして、しばらくして週13時間の面接に落ち着いたケースである。患者の遊ぶ能力が薄いクライエントに対して、遊べるまでぐっと待つことの大切さをウィニコットは訴える。ある回の3時間の面接のうち、1時間半はクライエントは存在しないまま過ぎていった。存在しないままにも「憂鬱と人を殺害したいほどの気持ち」など、意味のない強烈な発言を繰り返しつつ、ウィニコットは、思いついた解釈を言葉にするのを我慢しつつ、ノートには書いて精神的安定を保っていた。人の言葉でしか自己表現できないクライエントの様子が続く中、「自分がどうでもいい存在だという絶望的な感情、神様はいない」という話をしながら、まったくウィニコットと接触していないということを認める。ところが2時間が過ぎたところで初めて共にふたりで存在している感覚が生じた。生きていることが死んでいるクライエントは生まれた瞬間を命日と呼ぶ話をした後で、ウィニコットの解釈:クライエントの体験した無数の死、その瞬間に立ち会う人さえいれば死なないで済む」それに対して、「先生はどこにいるの?どうして私はひとりぼっちなの?」と、存在を共有する中で言えたクライエント。「今日のセッションを無駄にした感じがする」と生きて語るクライエントの凄まじさ。そして「私が健康になりたくないと思っている」という洞察をクライエントが出来るまでになったのである!夢をようやく取り上げるウィニコット、少女の絵が良くならない=健康になりたくないという意味だった。あたかも中立地帯のところで、とりとめなく無定形に機能すること、萌芽的な遊ぶことから生じる創造性は、真の無統合状態からのみ生じるということは、難しいクライエントの面接に重要だと気付かされた。

その前にクラインの「エディプス葛藤の早期段階」を読んだ。読んでもちんぷんかんぷんな内容ではあるが、ちんぷんかんぷんなクライエントの語りに辛抱強く取り組む姿勢を学べるということを共有した。男根期にきちんとエディプスを経験し、男子にとって母親との性的興奮、女子にとって父親との性的興奮をちゃんと体験するためには、口唇的固着や肛門的固着がないことが最低条件だと思い知らされた。もし男子にとって、母親との関係が肛門的固着を含んでいたら、母親の胎内を盗み奪い食い尽くし消化する欲動と、それに対する母親の食い尽くし破壊する力に屈する恐怖心に圧倒されてしまうことにびっくりした。肛門期のしつけによる糞便の取り上げが、去勢と同じように機能するとはびっくりする内容でした。また新鮮だったのは知識欲に関する知見です。幼児が言葉を用いられない、幼いということで恨みや憎しみが生じて、それが知識を受け付けたくないという強い姿勢を生じさせるということは、知識への抵抗の理解として重要だと思った。

これからも頑張りましょう!!

 

74回神戸大学ウィニコット研究会

201741日土曜日17302000

場所:勤労市民センター会議室5

次回内容:改訂版「遊ぶことと現実」第6章対象の使用と同一化を通して関係するということ クライン「著作集3愛、罪そして償い」第3章そう鬱状態の心因論に関する寄与

今回の内容:第5章創造性とその起源においては病的な追従と創造的な統覚の違いについて論じられている。生きるということは主観的に幻覚の中で生きるということと、現実原則の中で適応的に生きるという二つがある。スキゾイドの人は外界を主観的に見て妄想的になりつつほとんどの領域で地に足がついているような状態である。ウィニコットにとって健康とは大変に広い概念であり、統合失調症やスキゾイドもそれに含む概念である。健康とは不健康に対して寛容なことであるというウィニコットのテーゼは深い。スキゾイドや統合失調症の人であっても、卓越した価値のある仕事をしている人がいるのは、まさに創造性を持っているからである。一流画家の草間彌生さんを出すまでのこともないでしょう。それは他方に、客観的に知覚された世界にあまりにも頑なに根ざしていて何の創造性も発揮できない人もいるからである。生活上のリアルな事実と接触できないスキゾイドと、夢と接触を持てない空虚な人との両極が病気であり健康でないということになる。創造性は芸術そのものではない。むしろ生きることの中にある創造的過程のことで、知的に低い人にも可能なのである。ただし過酷な支配環境の過程や、過酷な政治体制の中で創造的であることは大変稀である。しかし創造的に生きるための個人の能力の確立には、初めから相対的な失敗がある。逆にいうと、創造的に生きることへの個人の能力が完全には破壊されないこと、盲従と偽りの自己の確立が極端な場合でも、どこかに隠れた形で、その人にとって創造的でありオリジナルであるゆえに満足のいく、「秘密の生活」が存在している可能性である。

自分の中に女の子を持っていた男性の事例は興味深い。ずっと長年分析的治療を受けてきた男性がただひとつ残してきたもの、それは母親の狂気の中で女の子として育てられたという事実であり、実際にウィニコットは逆転移の中でまさに彼を女の子として見ている段階に達し、患者は狂気のにウィニコットから自分を女の子として見る視点をもらったのである。この経験により深く動かされた患者は、その後の妻との性交を初めて男性として生き生きと体験できた一方で、女の子の側のペニス羨望で不調に落とし込まれたことを解釈できました。そしてこれは男性患者における分裂−排除された女性的要素という、解離の重要な要素をもたらしてくれた。

ここで男性的要素と女性的要素の理論の展開となる。男性的要素は能動性−受動性と関連して本能欲動を背景としている。一方女性的要素は、赤ちゃんが乳房になるということ、対象は主体であるという意味で乳房や母親と関係し、本能欲動はない。純粋な女性的要素は、乳房へと関係していることが主観的対象概念に必須である。そこに「あること」の基礎になる。「すること」=男性的、「あること」=女性的であれば、精神分析は「すること」の理論だった。バリントの「一次的対象愛」がすぐれて女性的であるのはそこかもしれない。最初はあることだった乳房が、好まれる=食べられることを意味するようになり、本能欲動の対象とされ、男性のペニスが女性の興奮させる女性的要素となり、女性の中に男性的要素の活動を引き起こす。

 

75回神戸大学ウィニコット研究会

2017513日土曜日17302000

場所:勤労市民センター会議室5

次回内容:改訂版「遊ぶことと現実」第7章文化的体験の位置付け クライン「著作集3愛、罪そして償い」第3章そう鬱状態の心因論に関する寄与

今回の内容:第6章対象の使用と同一化を通して関係するということは、対象と関わることと対象を使用できるようになることの本質的な差に言及している。分析家が解釈をするためには、分析家を主観的現象の領域の外側に位置づける患者の能力がなければダメであり、そうでない場合は解釈は有効ではない。境界例の患者が神経症的でありたいというニーズに分析家が共謀し、終わりなき分析になってしまう危険性を避けるためにも理解が必要である。対象と関わるためには、主体は自己の中に備給が起こり、対象が意味のあるものとなる。そこには投影や同一化が働き、主体の中の何かが対象に見出されると、感情は豊かになる一方で主体は枯渇していく。それは外界との関連が失われていく孤立したものとしての主体が関係している。対象の使用というときは、対象は使用するためには投影ではなく現実の一部であるという意味でリアルでなければいけない!すなわち対象を使用するためには、主体が対象を使用する能力を発達させていなければならず、これは決して生得的なものではなく、促進的環境に依存するものである。主体が、万能的コントロールの領域外に対象を位置づけること、つまり主体が対象を外的対象として知覚すること、この認識は主体が対象を破壊することでしか変化が生じない。主体は対象と関係しており、しかし対象が外的となるについれて「主体が対象を破壊」し始める。その後に「対象が主体による破壊を生き残る」ことが来たり来なかったりする。主体は対象に「私はあなたを破壊した」と言い、対象はそのコミュニケーションを、内的対象として破壊されつつ、外的対象として生き残り受け取る。「私はあなたを破壊した」「私はあなたを愛している」「私はあなたを愛している間、ずっと空想の中であなたを破壊している」今や主体は対象を使用することができるのである。対象が外的だから破壊できるとも言えるし、対象を破壊したから対象を外的に位置づけたとも言える。このように破壊することで対象はそれ自身の自律性と生命を張ったすさせ、生き残ることで主体に貢献できる。主体を外的に破壊するとは、破壊することでリアルに本当に真に対象=母親を困らせうんざりさせることができる。また困らせることで対象が外的になる。主体は対象の外在性を発見することで対象を創造しようとしている。それが出来るためには対象は主体の攻撃性や破壊を生き残る必要がある、すなわち仕返しや報復をしないということ、報復をするような変化を起こさないということが必要である。換言すれば患者による破壊性は、分析家を万能的コントロールの領域の外部に位置付けようとする試みである。それを解釈してはいけない。解釈せずに生き残り報復をしないことで解釈が有効な関係へと変化できる。ここで解釈してしまうと、患者からすると分析家の解釈は一種の自己防衛のように映ってしまい、分析家が患者の攻撃を交わしているだけに見えてしまい、生き残っていけない。分析が深まり、転移と逆転移が深まっている時に、ふと攻撃性が現れ、破壊性が現れ、真に対象である分析家を困らせ閉口させうんざりさせるプロセスの時には解釈せずに、生き残り、仕返しをしないことが大事なのだろう。しかし無意識的報復を考えるととてもタフで感受性を殺すこともできずしんどい状況が続くことになる。

 

76回神戸大学ウィニコット研究会

20176月 日土曜日17302000

場所:勤労市民センター会議室5

次回内容:改訂版「遊ぶことと現実」第8章私たちの生きている場所  クライン「著作集4妄想的・分裂的世界」第1章分裂機制についての覚え書

今回の内容:第7章文化的経験の位置づけにおいては、果てしない諸世界の海辺に、子供たちは遊ぶというタゴールの引用から、男女の果てしない交わりから子供を孕み、生まれまた子供が遊ぶ広い領域を示している。遊びはどこにあるのか、文化とはどこにあるのか、「一人でいられる能力」野中にある、誰かがいるところでしか一人でいられないという問題。赤ん坊はx分までは母のイマーゴは消えない、x+yまでは母が戻れば問題はない、x+yzでは心的外傷を受けてしまい、連続性に亀裂を生じてしまう、すると原始的防衛が「想像を絶する不安」の反復や初期の自我構造の解体による急性混乱状態の回帰に関する防衛が組織化される。

大事なことは人生そのものが一体なんなのかという疑問への答えとなる。今や、赤ちゃんが存在し始めるのも、生はリアルで人生が生きるに値すると感じるようになるのも、本能満足によるのではないとわかっている。本能充足は部分機能として出発するのであり、全体体験や移行現象領域での体験する能力が個人の中によく確立されていないとそれは誘惑になってしまう。自己が本能を使用するためには、それに先行して自己が存在していなければならないのである。生きていることと生きていないことの間を彷徨う精神病患者は、否応なしにこの問題に辿り着く。スキゾイドや境界例の患者のこのような問題は、私たちの文化的体験の問題に現れる。人類にパーソナルな存在を超越した連続を与えるのは、これらの文化的経験である。

文化的体験は、個人と環境(対象)の間の可能性空間である。すべての個人にとって、この空間の使用は個人の存在の早期段階に起こる生活体験によって決定づけられる。赤ちゃんは初めから、私の延長と私でないものとの間の、主観的対象と客観的に知覚される対象との間の可能性空間で、最高度に強烈な経験をしていることを認めることが精神分析の第一歩である。この可能性空間は、個人の芯的生活の中で主要な領域になったりならなかったりする。母親は赤ん坊に十全に適応している状態から徐々に適応できず欲求不満を与える存在に移行する。でもそれは十分ゆっくり進み、赤ん坊が欲求不満に耐える能力を培った時に満を辞して不満を与える。そこで赤ん坊の怒りが破壊性として現れ、母親はそれを受け止め生き残ることで、対象を使用する能力を赤ん坊は獲得する。

 

77回神戸大学ウィニコット研究会

2017723日日曜日13001700

場所:勤労市民センター会議室4

次回内容:改訂版「遊ぶことと現実」第9章子供の発達における母親と家族の鏡−役割  クライン「著作集4妄想的・分裂的世界」第4章転移の起源

今回の内容:第8章私たちの生きている場所では、自分がどこにいるのかということについて、内部でも外部でもない、中間領域でということになる。内向的な生活と外向的な生活の間に何があるのかということについて、赤ちゃんと母親との間の可能性空間ということになる。患者が分析家の信頼性やニードへの適応、喜んで患者に没頭しようとする姿勢などによって、安全だと患者に、生きていける感じを持つと、今度はそれを振り払って自律性を達成することへのニードを感じ始める。治療者側に患者から手を離せる心の準備がなければ、患者は自律的にはなれないし、同時に、患者と融合している状態から離れようとする治療者側のあらゆる動きに対して険しい疑惑の目が向けられてもいるので、いつ大惨事が起こってもおかしくない。赤ん坊と母親の微妙な関係の中間段階にいろいろな想像的な出来事が集中する。少年の紐は、二つの対象を結びつけると同時に、分離されていることに言及される。人間において分離はあり得ないのであって、常に分離の脅威だけである。患者は、治療者の思いやりが、依存してくる者を求めるニードから来るのではなく、「もし私があなたの身になったとすれば」という気持ちから患者に同一化する治療者の能力に由来しているものを感じ始める。母親のあるいは治療者の愛は、単に依存にニードに応えることだけを意味するのではなく、この赤ちゃんまたはこの患者に、依存から自立への動く機会を供給することをも意味するようになる。常につなぐものは分離の象徴でもある。愛とは愛の不在と同じことを意味するのであり、愛になれなかったものと愛になったものとの間は紙一重なのである。それでもかつて愛はあったのであり、赤ん坊と母親が一体であった時の充実感と充満感と満たされた気持ちと、分離が始まった時の絶望感と寂しさと怒りととの間があり、分離を耐え抜くのは一体感の気持ちなのだと思う。そこに遊びがあり

遊びこそが曖昧な中で空隙を満たすものになるのかもしれない。

 

教育臨床

学校現場におけるスクールカウンセリングに関心があります。

父母が教師だったこともあり、教師の努力と信念、がんばり、責任と義務について学んできました。

なかなかカウンセラーと教師は仲良くなりにくいところがありますが、本当の真の連携を目指しています。

スクールカウンセラーは教師を守るべき存在であり、教師もスクールカウンセラーを支えることができたら、お互い支えあう関係になれるのだろうと思います。

学校現場での、不登校、リストカット、非行、問題行動の生徒たちとのかかわりは本当に心ふるえます。

 

心理療法

心療内科でのカウンセリングがその中心になります。

僕はどちらかというと、“深い心理療法”よりは“浅いカウンセリング”を目指しています。

しかし深さを踏まえた浅さが理想ですね。

 

カウンセリング

ふむ・・・

カウンセリングとはなにか?

カウンセリングという言葉は、美容カウンセリング、結婚カウンセリング、宗教カウンセリング、いろいろな領域で使われる。

ではカウンセリングとは何か?心理カウンセリングとは何か?

カウンセリングの語源は、「counsel of perfection」、すなわち天国に入りたい人に対する完全になることの勧めとか助言を意味します。

 

Counselという言葉は助言するという意味があります。

ロジャーズのカウンセリングには助言という意味がありません。しかしカウンセリングという言葉そのものには助言するという意味が入っているのです。

この矛盾がカウンセリングにはあるのだと思います。

 

カウンセラーは助言が本質的だとは思っていません。

ところがカウンセリングを受ける人は助言を受けたくてカウンセリングに来ます。

不思議ですね、この矛盾・・・

 

Counsel patience・・・我慢せよと勧める・・・

でもどんなに我慢せよと勧められても、我慢できるものではありません!

そこにカウンセリングの矛盾があるのです。

助言するは安し、助言を守るのは難し・・・

 

社会と文化

人間は社会の中で生きていますね(o^^o)

 

文学、昔話、小説、映画、童話、神話と物語性

現実と離れたところでの神話の役割について考えさせられます。

非現実的だからこそリアリティがあるってことに心が動きます。

心の働きとは、物語としての特性を持っています。そしてそれは文学や昔話、映画などの表現活動の中に表れています。

自分が心ひかれる物語の中に含まれる自己の側面、意識的であれ無意識的であれ構成されている心のあり方。

 

 

音楽療法

昔は音楽と言葉と踊りは一つの演劇という芸術の中で熟成されてきました。

それが、時代が進むとともに分化して今の芸術があります。

自分の内面を音楽や踊りや言葉で表現するということ、それは人間が本来持っている、生きるということに含まれるエネルギーの流れです。

音楽という言葉を表現するということ、それは意味内容ももちろんのこと、その抑揚、イントネーション、余白や休符、リズム、強調などを含みます。

生きるということはそこに音楽があり、行為があり、言葉があります。

音楽が純粋に音楽である限り、その場かぎりのものです。そこが小説などの言葉の表現物と異なります。

まさに1回性、一期一会、同じ演奏は二度とないのです。

その場を共有した者のみがわかること、それが、音楽が表すことであり、言葉とは異なるものです。

言葉は本人が亡くなってもずっと残ります。音楽は本人が亡くなればもう二度と聴けません。