石郷岡先生の思ひ出


 石郷岡先生に初めてお会いしたのは,大学院受験前にご挨拶に行った1993年12月でした。
 新潟の東急インのロビーで待ち合わせ,目印に新潟大学の封筒を持っていると言って, 私が行くと,私の方に向けて,その封筒をわざわざ目立つように見せていた姿が 今もはっきりと思い出されます。
 お会いして,東急インの喫茶店で,研究のことについてなどを話し,一段落した後, 「変なことを聞くが,君は酒は飲めるか?」と聞かれ,酒好きの私は「はい!」と答えると, なじみの店(入学後何度も行くことになった)に連れていかれ, 初対面の時から一緒に酒を飲みましたね (すでに,喫茶店で会ったときから,何かを話したい感じで,そわそわしており, 本当は最初から飲み屋で話したかったのでしょうね・・笑)。
 群馬に帰れる最終電車に間に合う9時過ぎまで一緒に飲みましたね。 「東京の大学院だってあるじゃないか」などと言われ,私が新潟大の新設大学院に来ることを 心配してくれていましたね。入学後も,他の先生に紹介するたびに「彼は間違って,私のところなんかに 来てしまったんだ」と言っていましたが,私は自分が当初思っていた以上に正しい選択だったと, 今も確信しております。大学に就職した後,石郷岡先生を知る先生から,「君は,指導教官が 石郷岡先生だったからこそ,ドクターを取れたんだ」と言われたこともありますが, その通りかとも思っております。
 新大大学院時代,石郷岡先生には,毎週のように,飲みに連れていってもらっていましたね。 そのたびに,石郷岡先生は,全部おごってくれましたね。石郷岡先生は,飲み会や食事会では, 必ず自分の指導生全員の分を払ってくれていました。私一人だけでも,大学院在籍中の3年間で, 何十万にもなっていたでしょう。私が財布を出すと,先生は「何をしているんだ!」と 怒っていましたね。 しかし,ある日,あまりにおごられてばかりいるので,申し訳なく思い, 「払わせて下さい」と言うと,先生の真意をお話して下さいましたね。
「私は,東北大の院生の時から助手時代まで,すべて指導教官に飲食代を払ってもらっていた。 それは代々続いているもので,次から次に引き継がれており,私は,その伝統を守っているだけだ。 だから,君は何の気をつかうこともないんだ。なので,もしも,君がお金を払う気があるのならば, それは君に弟子ができたときに,君の弟子におごってあげて下さい。」とおっしゃられましたね。 私が学位が取れるかも,ましてや就職できるかも,まったくわからない院生時代に言われた 先生のお言葉は,私を勇気づけるものであったとともに,今も深く胸に刻みつけられております。
 講演会のご依頼が多く,頻繁にご講演をなさっていて,「私の講演会謝礼は,学生の飲み代」 (実際に,ご講演をなさった後,その謝礼を我々の飲み代に使っておられた)と おっしゃっていた先生ほど,私は金持ちではないので(笑), 完全ではないかもしれませんが,ほとんどすべての私のゼミ生の飲み代を私が払っているのは, 石郷岡先生の遺志を継いでいるつもりです。
 私のドクター取得が教授会で満票で決まったときと,学位授与式の夜には, 先生には,ふぐを食べに連れていっていただき,一緒にふぐとひれ酒を堪能しましたね。 先生が亡くなった直後になって,学位授与式の夜に先生と一緒にひれ酒を飲んでいるときの写真が見つかり, 今,その写真を見ながら,懐かしく,そして少し涙ぐみながらこの文章を書いております。

 昨日,奥様から,お手紙をいただき,「書き散らして居りましたものの中に こよなく愛したもう一つのものへの本音を見つけました。お偲びいただければ幸に存じます」 として,以下の一文がありました。

 「病窓の夜景ののれんに誘へり」

 先生!もう一度だけでいいから,一緒に飲みたかったですね。
 私にとっては,一生「先生」であることには変わりありません。
 もちろん先生は,学問的にも多くのことをお教え下さいました。
 しかし,それ以上に,先生は私ときちんと向かい合って下さり, 先生自身の生き方や人生を学ぶ機会を得たことが,私にとって大きな財産であると思っております。
 そして,先生のお教えを引き継ぎ, 私の指導学生に対しても,同じように関わっているつもりでおります。

 先生のご冥福をお祈りいたします。
                                                        2003.4.11 谷 冬彦





ひれ酒を堪能する石郷岡先生
学位授与式の夜,新潟のふぐ料理店にて
1997年3月25日


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