「なんば」歩きに関する議論の再検討:歴史的視点から
A Reconsideration of Debates on “Namba”
神戸大学発達科学部 秋元 忍
1.議論の前提 - 「なんば」歩きとは何であったか?
近代以前の日本人がみな、いわゆる「なんば」と言われる歩き方をしていたという確証はない。「なんば」歩きをする身体は、歴史学的な手続きを経て再構成され、認識された事実として存在していない。その身体は仮説の上塗りによる虚構の中に存在しているのみである。「なんば」歩きを自明のものとし、展開される議論は空論である。「なんば」歩きに関しては、以下の仕事が歴史家に要請されている。1)現存史料の再検討と新たな史料の発見。2)史料に基づく「なんば」歩きについての歴史像の提示。
2.「なんば」歩きはいかに注目されるようになったのか?
「なんば」歩きにしばしば付加される「日本古来の」「合理的な」技法という説明には、「なんば」歩きへの注目の背景を読み取ることができる。
1)「日本古来の」身体技法としての「なんば」歩き
「なんば」歩きを伝統的な、優れた身体技法とする主張には、近代的、西洋的、人工的な身体への批判と、前近代的、非西洋的、そして自然な身体への郷愁が織り込まれている。しかし、「なんば」歩きとみなされている技法は、日本という国の境界の内側に生活してきた人間に固有のものであったわけではない。自然な身体の動きとしての「なんば」歩きの擁護も、新たな規格化を生む契機を孕んでいる。
2)「合理的な」身体技法としての「なんば」歩き
近代スポーツへの応用という観点から、「なんば」の合理性が主張されている。その合理性は自然科学によって裏書きされる。しかし、この「なんば」歩きは、本質的に、過去に存在したとされる「なんば」歩きとは意味が異なる。過去に、「なんば」歩きなるものが存在していたとしても、そのように歩く人々が、その歩き方に合理性を見ていたわけではない。今日の「合理的な」技法としての「なんば」歩きは新たな発明品である。この発明品は、近代スポーツに従順な身体を、これまでのトレーニングと同じように再生産する。そこでは、過去の「なんば」とは何であったのかは重要な意味を持たない。よって、近代スポーツを超克する可能性を持つ、新たな身体行動の可能性が提示されることはない。
3.「なんば」歩きから人間の発達を考えるために
近代スポーツにおける卓越は人間の可能性を示唆する。しかし、人間の発達の可能性は、近代スポーツのみに見出されるものではない。偏狭な国家主義や、近代スポーツへの妄信から距離を置いて、過去の身体行動のあり様を見つめ直す必要があるのではないか。将来の展望は、過去の批判的な検討によって拓かれるからである。