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『神戸大学発達科学部紀要』第10巻第2号、2003年

セルフ・アドボカシーの支援をめぐる基本的視点〜支援者の属性と支援の内容に関する実証的研究〜

津田英二

Fundamental Perspective on Self-advocacy Group Advisor Activities

Eiji Tsuda

This article tries to clarify the issues on advisor activities of self-advocacy groups, while reflecting the fundamental problems of self-advocacy which are thought to be mainly caused by the discrepancy between authorized idea and meaning in practice of self-advocacy.
Fundamental problems of self-advocacy are defined as follows and are considered. 1)Conflict between self-determination and supporting self-determination. 2)Conflict between authorized purpose of self-advocacy and meaning of self-advocacy given by self-advocates. 3)Conflict between modernism in self-advocacy and emergence in practice of the power to overcome the modernism. The thesis of this article is that discrepancy between authorized idea and meaning in practice sublated by relational transformation between self-advocates and advisors.
The positivistic research on self-advocacy in Japan was implemented in September 2001 with the help of Inclusion Japan. The questionnaires were distributed to 130 self-advocacy groups in Japan. The respondents were 628 self-advocates and 122 advisors. Analyzing the results, how groups are self-advocate-centered were examined in relation with the attribution of advisors and the contents of advisor activities.
As for the attribution of advisors, the lowest scores were made when advisors were parents of self-advocates, and citizens the next. As for the contents of advisor activities, the list was made as follows. A) Activities that put priority on self-advocates' pace. a. Basic support on self-determination (to make self-advocates do what they can do by themselves, to provide diverse information, and to help understanding how to advance meeting.) b. Individual support when needed (to help speaking up, to help understanding what is going on in the meeting, and to encourage self-advocates.) B) Activities that put priority on advisors' pace (uninhibited speaking of advisors, and support to advance meeting).
Then lastly the concrete idea of self-advocate-centered was discussed again and necessity to research on collaboration between self-advocates and advisors was insisted while introducing a case which is a project named Remembering with Dignity executed mainly by Advocating Change Together in St.Paul, Minnesota.

T セルフ・アドボカシーの概念と原理的課題
1 本稿の目的と構成
 セルフ・アドボカシーとは、「知的障害者」が自らの権利を擁護することを目的として、本人の手によって組織化される活動の総称である。
 本来、セルフ・アドボカシーは、アドボカシー(権利擁護)の一形態であり、法的な意味をもつものである。アドボカシーにセルフ(自己)という語が付加されることによって、権利のために訴える行為を、代理人ではなく、権利主体本人が中心となって行うという点が強調される(橋本、1996)。
 しかし、セルフ・アドボカシーの実践的意義は、これにとどまらない。権利のために訴える行為を自らが行う権限・機会を奪われてきた「知的障害者」にとって、セルフ・アドボカシーの実践は多くの場合、そのような権限や機会を奪い返す運動でもあるからである。その場合、セルフ・アドボカシーはアドボカシーの一形態であるというより、むしろアドボカシーの中心的位置を占める実践ということになる。アドボカシーは、本人を中心として行わなければ、生活が危険に曝されることになるからである(立岩・寺本、1997)。実際、本人にはアドボカシーの能力が欠如しているという観念のもとで、専門家・施設職員・親・教師といった代理人は、いかに彼が善意であろうと、本人のアドボカシーの権限と機会を奪う立場を、社会的に付与されてきた(Bersani、1996)。
 このような法的理念と実践的意義との隔たりが、セルフ・アドボカシーに、いくつかの原理的課題を課している。本稿では、これらのセルフ・アドボカシーの原理的課題について整理・考察することで、セルフ・アドボカシーにおける支援の問題を位置づけ、支援者の属性と支援の内容に関する基本的な考察を行う。
 セルフ・アドボカシーの実践分析の枠組みとして筆者が提示しようとしているのは、「知的障害者」本人と支援者との関係性変容の視点である。筆者は、セルフ・アドボカシーにおける本人と支援者との関係性変容の質や原因や意味などを明らかにするため、日本全国のセルフ・アドボカシー・グループを対象とした実態調査(「本人活動に関する実態調査研究」)を実施した。詳細は別稿(津田、2002)を参照いただきたいが、本稿ではこの調査のデータの中から、支援者の属性と支援の内容に関するものを中心に扱う。

2 セルフ・アドボカシーの原理的課題
 セルフ・アドボカシーの原理的課題は、法的理念と実践的課題との間の隔たりを原因として生起すると述べた。その原因とは、第一に、自己決定(法的理念)と自己決定支援(実践的意義)との間にある緊張関係、第二に、観念としてのセルフ・アドボカシーの目的(法的理念)と本人によるセルフ・アドボカシーの意義付け(実践的意義)との間にある緊張関係、第三に、セルフ・アドボカシーの近代性(法的理念)と、実践に内在するそれを超えようとする契機の萌芽(実践的意義)との間の緊張関係である。
 以下では、これら3つの緊張関係について、検討してみる。
(1)自己決定と自己決定支援との緊張関係
 松友了は、次のように述べている。“セルフ・アドボカシー(本人活動)の成否は、局限すれば、自己決定がいかに貫かれるか否かにかかっている。それゆえ、セルフ・アドボケイト(メンバーである本人)の自己決定を支援するとともに、代弁機能との調整を図らねばならない。セルフ・アドボカシーにおいては、代弁機能というのは一種の介入(intervention)行為であり、自己決定と対立するものである。”(松友、2000、p.7)松友が問題としているのは、専門家・施設・親によるアドボカシーと、本人によるセルフ・アドボカシーとの間にある外在的な緊張関係である。前者が独占してきた権力関係を、後者の台頭が変容させていくという、新しい社会運動論的なセルフ・アドボカシーの把握(Bersani、1996)に従えば、このような緊張関係は歴史的必然である。
 しかし、このような緊張関係はセルフ・アドボカシーにとって外在的なものにとどまらない。セルフ・アドボカシー・グループにおける本人と支援者との間の内在的な緊張関係が存在する。支援者は、本人の自己決定を支援する者としての機能を期待されるが、そもそも2つの意味で自己決定と自己決定支援との間に内在的矛盾が存在する。
 第一に、支援者の立場性が、外在的な緊張関係をもつアドボカシーの主体の側にあり、その外在的な緊張関係を、セルフ・アドボカシーの内部に持ち込んでくるものだからである。現行のセルフ・アドボカシーの多くが、既存のサービスへの対抗であるよりも、「知的障害者」がサービスをどのように考えているかを探る道具になってしまっているという指摘など(Aspis、1997)は、外在的な権力関係がセルフ・アドボカシーの内部に浸透してしまうことに対する警告である。
 第二に、自己決定を支援するという行為に含まれる矛盾がある。つまり、自己決定を支援しようという思いで行う行為そのものが、本人の自己決定の権限・機会を奪うことが日常的にありえる。寺本晃久は、この矛盾の原因が、「できないこと」の内実が曖昧であることと、支援者から本人に提供される情報そのものに価値が含まれることにあると説明している(寺本、2000)。
 以上のように、自己決定と自己決定支援との間の緊張関係には、セルフ・アドボカシーにとって外在的なものと内在的なものがあり、さらに内在的な緊張関係には、支援者の立場性を原因とするものと自己決定支援の行為そのものを原因とするものがある。

(2)セルフ・アドボカシーを意味づける主体
 全日本手をつなぐ育成会主催の「支援者セミナー」で、三田優子は次のような内容のコメントを行っている。セルフ・アドボカシーは、本人の意志に最高の権限を付与するものであるから、その活動を組織化するかしないかというところまで含めて、本人が決定すべきことである。セルフ・アドボカシーの目標もまた、本人が決定することであり、支援者や専門家が決めることではない(全日本手をつなぐ育成会、1997b、pp.35-53)。
 前述したように、セルフ・アドボカシーの意義は、「知的障害者」の抑圧された生活や意志を解放するところに見出されてきた。本人の自己決定の徹底的な肯定という試みは、それ自体で、自己決定の剥奪状態からの解放実践たりえる。しかし、ここで、2つのことを考える余地が残されていよう。ひとつは、本人の自己決定を尊重するというのなら、本人は本当に自己決定をすることを望んでいるのか、それはどのレベルでのことなのか、という点。もうひとつは、セルフ・アドボカシーの社会的意義を明確にしようとするほど、本人のそれへの意味づけから離れていくことがありえる点。
 たとえば、セルフ・アドボカシーの意義を「当事者の参加・参画」に置く一連の研究がある(河東田、1992;河東田他、1993;同、1994)。この用語や視点そのものは、そのように見られる具体的なセルフ・アドボカシーの実践を行う「知的障害者」本人によるものではない。もっと言えば、それは日本の支援者・専門家が外国(スウェーデン)から輸入してきた概念と言えなくもない。つまり、「当事者の参加・参画」に目的的価値を措定するということに本人の意志は反映されにくい。また「当事者の参加・参画」という社会的意義は、本人による意味づけとは別の次元のものでありえる。とはいえ、「当事者の参加・参画」という支援者・専門家の問題意識は、現代社会のありようや「知的障害者」が置かれている状況に深くコミットすれば、必然的に出てくるものだとも言える。
 枝本信一郎は、「知的障害者」を「自己決定」以前の位置に貶められ、人生を自分の手に取り戻したいとさえ思えていない人々である”と考えてみるところから、セルフ・アドボカシーの意義を再確認しようとする。彼によれば、日本には、自己決定してそれを表明すること(自己主張)を肯定する文化はない。その中でなお自己決定に価値を置くとするならば、そのような日本文化を問い直すことが必要であるとともに、自己決定をしたいという思いを育て、自己決定の経験を積み重ね、さらに自己決定の重みに気づくという過程が重要である。それらの実現のためには、本人を今のありのまま受け入れてくれる仲間、「知的障害者」が寄り集まれる場が不可欠だと主張する(枝本、1994)。
 本来、セルフ・アドボカシーは、本人の意志を最大限に尊重する活動であり、本人自身によって意味づけられる活動である。その意味で、はじめに紹介した三田の言説は正論である。しかし、そのような活動を成立させる条件や社会的背景についての理解が追究されることで、「知的障害者」は対象化され、セルフ・アドボカシーへの本人以外の人々による意味付与が行われる。しかし、セルフ・アドボカシーが社会的行為であり、しかも社会全体への一定の問題提起性をもつ活動である以上、「知的障害者」やセルフ・アドボカシーを外部から意味づけするという事態を全面的に否定することも難しい。だからこそ、本人によってセルフ・アドボカシーを意味づける試みは、重要な意味をもつとも言える1)。このように、セルフ・アドボカシーを誰がどのように意味付与するかをめぐる緊張関係は、セルフ・アドボカシーの原理的な課題として立ち現れる。

(3)セルフ・アドボカシーの近代性・脱近代性
 寺本晃久は、「知的障害者」の自己決定が尊重されるようになってきた近年の動向について考察し、次のような問題を提起する。“自由に関する主張は同時に自由を行使する能力のない者を排除した。しかし、現代に続く歴史の中で、(本当は)能力があるのだと主張することによって、権利主体の範囲は広げられてきた。……しかし、このことは逆の効果も生み出している。すなわち、ある人の能力を認め自己決定権を尊重することが、逆に能力のない者を取り残していくという矛盾である。”(寺本、1999)
 筆者も同様の問題意識から、“非理性を合法的に排除していくことによって理性を純化し、その理性を統制していくことで秩序を実現していくことを志向”する近代化を啓蒙統制型近代化、“非理性の隔離をやめ、理性による非理性の統治をコミュニティあるいは市民社会に委ねていくことを志向する”近代化を自立共生型近代化と概念化し、近年の自己決定尊重の動向を検討したことがある。その検討の中で、啓蒙統制型近代化においては、行為能力がその対象である人物評価としておおざっぱに判断されたのに対し、自立共生型近代化においては、すべての人間に持ち得るだけの行為能力が認められ、行為能力剥奪を伴う保護は必要最小限度でしか運用されないことを述べた。自立共生型近代は、自己決定が尊重される時代でもあるが、同時にそれを要求される時代なのである(津田、1995)。
 すなわち、現在起きている事態を、寺本が自己決定を認められる部分と認められない部分との境界の再編として捉えたのに対して、筆者は自己決定を最大限に引き出していく政治による社会秩序の維持への志向として捉えた。いずれにしても、近代的理性の枠組みの中で自己決定を尊重する枠が変動したということであり、常にその外側(自己決定が尊重されない部分)が存在すると捉えたのである。この捉え方に基づけば、それまで自己決定を尊重されていなかった人々のある部分についてそれを尊重しようとする試みとしてのセルフ・アドボカシーは、近代のプロジェクトの一環として位置づけられる。
 しかし、実際にはセルフ・アドボカシーはその枠組みから逸脱する性格ももっている。
 寺本別の論文では、セルフ・アドボカシーを、「知的障害者」による自己定義の実践として捉え、「知的障害」のカテゴリーの根拠となっている「能力」というカテゴリーを解体する実践として意味づけている(寺本、1997)。また、セルフ・アドボカシーの実践において、「能力」によって「障害」を価値づける体系を反転させ、「軽度の普通 mildly normal」「中度の普通 moderately normal」「重度の普通 severely normal」「最重度の普通 profoundly normal」という自己定義も行われたことがある(Dybwad、1996、p.12)。
 すなわち、セルフ・アドボカシーの実践においては、自己決定能力による線引きが無批判に受け入れられないこともある。むしろ、セルフ・アドボカシーは、「能力」による線引きに対するレジスタンスとして機能しさえする。そうすると、セルフ・アドボカシーは、近代のプロジェクトを乗り越える拠点として位置づけることも可能となる。
 実際には、セルフ・アドボカシーは、能力主義を不可欠の要件とする近代のプロジェクトを押し進めていく力と、能力主義を解体させようとする脱近代に向かう力とが緊張関係にある場であると言うことができよう。この緊張関係は例えば、セルフ・アドボカシーは「軽度の知的障害者」のものでしかない言説と、障害の重さは関係ないという言説との間にも具現する2)。この点に3つ目の原理的課題がある。

3 セルフ・アドボカシーにおける支援の位置
 前節で述べてきたセルフ・アドボカシーの法的理念と実践的意義との間の矛盾は、本人と支援者との関係性変容を契機として止揚する、というのが筆者の仮説命題である。
 法的理念と実践的意義との間の弁証法は、次のようなプロセスを予想することができる。すなわち、セルフ・アドボカシーは、近代主義的な法的理念に基づいて実践化されるが、実践されることによって法的理念を超える局面が生起し、法的理念自体が変容を余儀なくされる。このプロセスの中で、実践において法的理念を超える意味が見いだされていく点が、止揚の契機となっている。
 実践において法的理念を超える意味が見いだされるというのは、「権利擁護を権利主体が中心になって行うようにする実践」の結果として、それ以上の実践の意味を、権利主体が構築するということである。支援者は多くの場合、セルフ・アドボカシーが「権利擁護を権利主体が中心になって行うようにする実践」であるという理念に影響を受けやすい。支援はその実践に価値付与することで成り立つからである3)。ところが、権利擁護の内容には、セルフ・アドボカシーにおける本人によるコントロールが含まれているので、セルフ・アドボカシーの理念を支援者が独占するわけにはいかない。したがって、「権利擁護を権利主体が中心になって行うようにする実践」という、支援者によって言語化されていたセルフ・アドボカシーの所期の理念は、本人によるセルフ・アドボカシーの意味づけに切り崩されていく。この切り崩しは、実践をコントロールする権力が、支援者から本人へ移動することを意味する。
 本人と支援者との関係性変容について別稿(津田、2002)で、実証的に検討した結果として抽出された関係性変容の要因の中に、支援者の属性および支援の内容などがあった。次章ではこの部分についての一歩踏み込んだ検討を試みる。
 なお、セルフ・アドボカシーにおける支援のあり方を論じるに当たって、留意しなければならない基本的事項がある。
 第一に、支援の質がセルフ・アドボカシーの質を決定づけるという「常識」に荷担しないよう、注意しなければならないということである。セルフ・アドボカシーは、あくまで本人による本人のための活動であり、その意味づけや評価も本人が行うことを理念としている。
 第二に、支援内容は多分に関係に規定されていることに注意しなければならない。支援内容を変化させることで関係が変化することもあるだろうが、関係が変化することによってはじめて支援内容を変更することができることも多い。あるいは、支援内容の意味は、関係に拘束されている。例えば、自立的な関係における「情報提供」と、依存的な関係における「情報提供」とでは、意味が大きく異なる。前者では自立がいっそう促進される支援になるだろうが、後者では情報操作を介して依存がいっそう促進される支援になることもありえる。良好な関係を形成する支援内容が定義されたとしても、必ずしもそれが実践的な意味をもつとは限らないのである。

U 支援に関する実態調査分析結果
1 調査の概要
 「本人活動に関する実態調査」は、全日本手をつなぐ育成会事務局の協力を得て組織した研究会の協力を得て実施したものである。調査票は、全国手をつなぐ育成会が把握している130のセルフ・アドボカシー・グループに対して、2001年9月に郵送で配票した。その際、本人に答えてもらう調査票20票と、支援者に答えてもらう調査票3票を同封し、本人の会代表宛に郵送した。
 有効回答数は本人分が628票(有効回答率24.4%)、支援者分が122票(有効回答率31.3%)であり、66団体(50.8%)からの協力を得た。
 調査票の記入は、なるべく本人だけで行い、必要に応じて支援者等に協力してもらうよう依頼した。本人だけで記入したと答えた本人は295名(49.5%)、会の支援者の支援を得て記入した本人は157名(26.3%)、施設職員や親の支援を得て記入したと答えた人は106名(17.8%)であった。
 回収された調査票は、会ごとに読み込み、本人が主体的であるかどうかに関わって5段階尺度で分類した。その際、本人が主体的であるかどうかの基準としたのは、以下の3項目である。@支援者に対して本人のまとまりが強いこと、A本人ひとりひとりの個性が大切にされていること、B本人が、支援者に対して言うべきことは言っていること。
 この調査では、次のようなセルフ・アドボカシー・グループの発展プロセスを仮説として設定した。「@初期条件として諸々の権限が支援者に集中している、A何らかの理由で、発言権や決定権が本人に再分配される、B発言権や決定権を左右する情報をもつ支援者と本人との間に葛藤が生じる、C葛藤の解決によって本人の主体性が確保され、支援者との相互補完的関係性が構築される。」この仮説のうち、@からAに至るプロセスと、そのプロセスを経てCが達成されることが、調査結果として示された。しかし、AからCに至るプロセスでBつまり本人と支援者との葛藤が介在しない傾向も示された。また、Cの段階に至る決定要因として、本人の発言権や決定権の他に、支援の量や支援に対する本人の考え、支援者の性格、本人の活動参加動機、活動内容、会の所在地などがあることも示された。本論の主題は、これらの決定要因の中から、特に支援の問題に焦点を当てたものである。

2 支援者の属性
 本論の前提となる論文で、会が本人主体であることと、支援者(回答者)が本人の親族でないこととが、強く相関していることを示した(津田、2002)。まず、この結果がどのような意味をもっているかということを分析する必要がある。

表1: 支援者の属性による比較
施設職員 48名 親族 23名 一般市民 24名
会の年間計画策定の主体(現在) 0.241 * 本人が主体 -0.186 -0.030
現在の司会(本人/支援者) 0.205 * 本人が主体 -0.190 * 支援者が主体 -0.137
支援の内容(励ましたり勇気づける) 0.216 * 勇気づけしない -0.154 -0.076
支援の内容(自由に発言する) 0.240 * 発言しない -0.087 -0.019
支援者の観念(訓練の場) 0.365 ** そう思わない -0.284 ** そう思う -0.093
支援者の観念(日常生活援助) 0.236 * そう思わない -0.155 -0.097
会の決定に対する支援者の影響(現在) -0.017 -0.099 0.223 * 少ない
本人と対等だと感じるようになった -0.029 -0.095 0.278 ** 感じるようになった
支援の内容(分かりやすく説明する) 0.024 -0.096 0.204 * 説明しない

*<0.05 **<0.01

Pearson相関係数

*施設職員であり親族である支援者は2名であった。

*一般市民とは、全回答者から施設職員、親族、学校教員、元学校教員を除いたもの。

 表1は、支援者の属性と相関のある項目を示したものである。これによると、支援者が施設職員であるときと、本人の親族であるときとが、対照的であることが分かる。相関に有意差があるものだけを見ても、施設職員がセルフ・アドボカシーを「訓練の場だと思わない」と考える傾向が強いのに対して、本人の親族は「訓練の場だと思う」と答える傾向がある。また、施設職員が支援者であると、本人が中心に司会を行っている傾向があるのに対して、本人の親族が支援者の場合、支援者が司会を行う傾向がある。相関のない項目でも、両者では正負が逆転しているものが多い。支援者が施設職員である場合との比較においては、支援者が本人の親族だと次のような特徴が現れると言うことができよう。@会をコントロールする権限の移動が起こりにくい傾向がある、A支援者としての関わりが積極的である傾向がある、B支援者がセルフ・アドボカシーにさまざまな意味付与を行う傾向がある。
 本人の親族がこのように過干渉になりがちとなる原因について、深い理解が必要である。そうでなければ、本人の親族に一方的な否定的価値を付与することになってしまう。
 例えば、障害のある人とその親との関係について、次のような分析がある。日本の家族制度は、家族の自助原則を根強く内在し、障害のある人の家族への依存と家族の負担とを生み出してきた。しかも、家族の自助原則が期待する障害のある人の家族役割とは、障害のある人が社会の迷惑にならないように監視を怠らないことである。したがって家族自身が、社会に流通する「否定的障害者観」をもって役割を遂行することを期待される。また、近代家族規範は性別役割分業の上に成り立つため、家事・育児責任者としての母親にその家族の負担を背負わせてきた。この母親への責任の集中は、障害のある人の家族環境をとくに悪化させ、母親の自己利益的なふるまいを喚起する(要田、1999年、pp.75-86)。
 実際には本人の親族、特に母親が本人の会に関わらざるをえない状況がある中で、本人と母親双方の自立に向けた取り組みとしても、セルフ・アドボカシーを位置づけることができる(津田、2000)。双方の自立のためには、能力主義や業績主義の中で生きてきた父親が共生の思想に関心を向けていくことの重要性が指摘される(石川、1995、p.51)が、セルフ・アドボカシーの支援との関わりでは、一般市民の参加促進について考える必要がある。
 本人が自分の意見を構成したりそれを表明し行動したりするためには、その根幹に他者からの承認やそれに基づく自尊感情や自己効力感が必要だという主張がある(Dempsey & Foreman、1997)。家族が「国家のエージェント」としての機能を期待され、「否定的障害観」を内化しているのであれば、家族以外の他者が本人を承認する場がつくられなければならない。承認の問題を家族に抱え込ませないようにすることで、家族の関係が変容する見通しももてる。
 これまで、家族以外で本人が承認される場に、施設や学校があった。その意味で、今回の調査において施設職員が、本人の主体性を強く意識した支援を行う傾向にあることは、大いに評価すべきである4)。しかし、施設も学校も基本的には「国家のエージェント」であり、家族からの委託を受けて業務を遂行する場である。したがって、家族の意思に拘束されているし家族への説明責任も大きい。また、生活支援とセルフ・アドボカシーの支援を同じ人が行うことは好ましくないとする意見も根強い(全日本手をつなぐ育成会、1999、p.9)。本人が主体的であり、本人と支援者とが協働的な関係を形成できるための条件の点で、施設や学校は本質的な限界をもっていると考えるべきであろう。
 このように、セルフ・アドボカシー支援への一般市民の参加促進が課題として浮上する。けれども、表1に見るように、一般市民のセルフ・アドボカシー支援への意識は、親族のそれに近いことが分かる。一般市民が、基本的には「否定的障害者観」の影響下で支援を行っている傾向があると考えることができる。ただし、一般市民の意識が、施設職員や親族のそれとは異なる点がある。本人と自分とが対等だと感じる傾向にある点、話し合いの内容を分かりやすく説明しない傾向にある点、そして会の決定に対する支援者の影響が小さいと考える傾向にある点である。
 こうした特徴は次のように解釈することができよう。一般市民は多くの場合、はじめから本人に対して指導的立場にはいない。本人との協働的な関係を形成するためには有利な位置にあるのである。けれども、セルフ・アドボカシー支援にとってマイナスの要素でもある。本人への適切な支援についての、基礎的な認識や技能を形成する機会がないということでもあるからである。一般市民の有利な立場を活用しつつ、「否定的障害者観」を払拭し、適切な支援のあり方を学ぶ機会を保障することが、重要な課題だと言うことができる5)。
 では、セルフ・アドボカシーの適切な支援とは、具体的にどのようなものとして考えることができるだろうか。次節ではこの点について考察してみる。

3 支援の内容
(1) 支援のカテゴリー
 すでに今回の調査で、支援者が積極的に支援しないほうが、会で本人が主体的であるという結果が出ている(津田、2002)。しかし、だからといって支援者は何もしないほうがよいということにはならないだろう。どのような支援をすべきで、どのような支援はすべきではないのかということを明らかにしていくことが望まれる。

表2:「会で本人が主体的であるか」との2変量の相関(支援者の回答)

支援の内容 係数 意味
支援者自身が自由に発言するか 0.350 *** しないほうが本人が主体的
話し合いの進行を援助するか 0.336 *** しないほうが本人が主体的
本人を励ましたり勇気づけるか 0.264 ** しないほうが本人が主体的
話し合いの内容を分かりやすく説明するか 0.262 ** しないほうが本人が主体的
本人の発言を援助するか 0.256 ** しないほうが本人が主体的
話し合いの方法理解を促すか 0.160
多様な情報を提供するか 0.066
できることは自分でと働きかけるか 0.017

*<0.05 **<0.01

Pearson相関係数

表3: 支援内容の因子分析結果(Varimax回転後)

F1 F2 共通性
できることは自分でと働きかけるか 0.87 -0.07 0.77
多様な情報を提供するか 0.79 0.24 0.69
話し合いの方法理解を促すか 0.66 0.54 0.73
本人の発言を援助するか 0.63 0.65 0.82
話し合いの内容を分かりやすく説明するか 0.57 0.52 0.60
本人を励ましたり勇気づけるか 0.54 0.40 0.45
支援者自身が自由に発言するか -0.04 0.82 0.68
話し合いの進行を援助するか 0.31 0.69 0.57
寄与率 53.39 12.96 66.35

表4: 「会で本人が主体的であるか」との2変量の相関(本人の回答)

希望する支援の内容 意味
話し合いの内容を説明してほしいか 0.007
言いたいことの伝達を支援して欲しいか 0.075
話し合いの進行を支援して欲しいか 0.155 *** 本人が主体的であるほど、してほしくない
支援者に自由に発言して欲しいか 0.095 * 本人が主体的であるほど、してほしくない
楽しく過ごすための支援をして欲しいか 0.078

*<0.05 **<0.01 ***<0.001

Pearson相関係数

 表2をみると、支援をすることと、本人が主体的であることとの相関がない支援の項目が3つある。「話し合いの方法理解を促す支援」「多様な情報を提供する支援」「できることは自分でと働きかける支援」である。これらの支援は、セルフ・アドボカシー・グループにおける集団での自己決定に至るための基本的な支援として考えることができる。情報を提供した上で、その情報を用いた意思決定の方法習得を促し、あとは自分たちで決定し実行していくように働きかける、という基本的な自己決定支援の流れを想起することができる。
 8つに設定した支援内容の項目を因子分析した結果、表3の結果が得られた。これによると、支援は2つのカテゴリーに分類できる。ひとつは「本人のペースに寄り添う支援」であり、もうひとつは「支援者のペースを優先する支援」と考えることができよう。しかし、このうち前者を表2のカテゴリーに重ね合わせると、もうひとつのカテゴリーを形成することができる。すなわち、「本人のペースに寄り添う支援」の中に、「基本的な自己決定支援」と「必要に応じた個別支援」とがあると考えられる。カテゴリーを整理すると次のようになる。
A 本人のペースに寄り添う支援
 a 基本的な自己決定支援
・できることは自分でと働きかける支援
・多様な情報を提供する支援
・話し合いの方法理解を促す支援
 b 必要に応じた個別支援
・本人の発言への支援
・話し合いの内容を分かりやすく説明する支援
・本人を励ましたり勇気づける支援
B 支援者のペースを優先する支援
・支援者自身による自由な発言
・話し合いの進行への支援
 これらのカテゴリーの支援は、実際の運用に当たって、Aaは基本的に行うべき支援、Abは必要に応じて行う支援、Bはできるかぎり避けたい支援、といった意味づけをすることができよう。ただし、Aaであっても状況に応じて行わなければならないし、その状況を判断すること自体が容易ではない。Abも、どのような場合に必要だと言えるのかという基準があるわけではない。これらの点の考察は、今回の量的な実証研究では限界がある。
 表4は、本人の視点からこのカテゴリーを部分的に裏付けている。すなわち、会で本人が主体的であるほど、「話しあいの進行への支援」および「支援者自身による自由な発言」を本人が拒否しているのである。

(2) 先行研究との関連
 さて、今回の調査結果と、セルフ・アドボカシー支援のあり方に関するいくつかの言説との関連を概観しておく。
 支援のあり方に関する先行研究の多くも、本論と同様に、支援において生じる権力関係を扱っている。ウォーレルは、支援者が権力の問題に敏感になることの重要性を強調し、支援者の役割を、情報提供、意思決定援助、組織化の援助、協働的な計画策定といった4点から論じている。これらの役割を遂行する目標は、支援者が本人のペースを待てなくなったり、本人のために何かを決定するということを否定し、本人が支援者を通すことなく自分たちで意思決定することができる組織を形成するところにある(ウォーレル、1996、pp.51-62)。
 ウォーレルが示す4点の支援者の役割は、前項で示したAa(基本的な自己決定支援)とほぼ重なっている。ただし、ウォーレルの言う協働的な計画策定については、本人ばかりでなく支援者自身が計画策定に参与することを前提にしている。計画策定における協働的な関係とは具体的にどのようなものであるのか、支援者が協働的であると考えていても、本人からは権力的な関係であると感じられることはないのかといった、協働の中味については、ウォーレルも今回の調査も扱う枠組みをもっていない。
 Curtis(1984)は、支援のあり方を、グループの発展プロセスに応じて変化するものであると捉えている。Curtisは、セルフ・アドボカシー・グループの発展段階を「初期段階」「自立に向けた学習段階」「自立段階」の3段階に分け、それらに応じた支援者の役割を「helper」「assistant」「advisor」とした。彼は、それぞれを次のように概念化する。「helper」は、グループを組織化し、自分たちの責任を遂行したり、会を運営する方法を教授する。「assistant」は、本人たちとともに新しいメンバーを教育し、また必要に応じた支援をする。「advisor」は、特定の目的のために招かれた短期的・一時的な支援者である。
 本人と支援者との協働的な関係は、Curtisのモデルにおける第三段階で達成されると考えられる。それは、セルフ・アドボカシー・グループが特定の目的をもつようになり、その目的を遂行するために、本人と支援者が、互いに欠かすことのできない異なる機能をもって関わるという状態である。
 しかし、Curtisのモデルではそのような状態に至るプロセスへの支援を明確に捉えているとは言えない。その結果、協働的な関係が理念的なイメージにとどまってしまう。この関係が、ごく稀に偶発的に成立するかもしれないといった展望しか持つことができないからである。
 平井(1996)も同様に、本人と支援者とが協働的な関係に至るプロセスに即して、支援のあり方が変化していくことを捉えた。平井によれば、支援の基礎として「説明と合意」「心理的支持(励まし)」「観察と傾聴」があり、本人の自己決定度が高くなるにつれて、「指示・注意」→「教示・モデルの提示」→「助言・提案」→「確認」→「示唆」→「参加」といったプロセスで支援の形態が変化していく。このモデルによる協働的な関係のイメージは、本人と支援者がともに対等に自分の意見を表明することができる条件が整っていることであると言えよう。
 今回の調査においては、量的調査の限界もあって、支援をプロセスとして見る視点を組み込むことができなかった。ただし、例えば前項でB(支援者のペースを優先する支援)として位置づけた「支援者自身による自由な発言」であっても、明確な協働的関係においては積極的な支援となりえることを、平井のモデルは示唆している。すなわち、前項で整理した支援のあり方は、いずれも本人と支援者との関係性変容のプロセスに応じて、その意味づけが異なっていくのである。
 なお、平井の支援プロセスモデルにおける「支援の基盤」については、今回の調査ではいずれもAb(必要に応じた個別支援)として位置づけられた。これらの支援は、いずれも本人が主体的であることを妨げる可能性がある支援と解釈されたからである。平井の述べる「支援の基盤」は、例えば「多様な情報を提供する支援」をする前提として、「本人がどのようなことに対する情報を必要としているか」を認識し、「本人が必要としている情報について合意に基づいた理解を促し」、「本人が必要な情報を利用して、支援者に依存することなく、意思決定を行う」といったことを意味していると理解できる。しかし、今回の調査結果が示したのは、これらの支援の懇切丁寧さが、支援の意図とは逆に本人の支援者に対する依存を高めてしまう可能性があるということであったとも言える。平井の言う「支援の基盤」がどのような場合に適切であるのかということについて、さらに考察を深める必要を感じる。
 またCone(2000、p.149)は、全米のセルフ・アドボカシー支援者を対象とした調査において、支援の内容を被調査者に尋ねることで、よく行われる支援として次のようなリストを作成した。
・セルフ・アドボカシーや個人の権利についての学習を支援すること
・グループ活動に参加するよう勇気づけづけること
・支援の提供のために、すべての役員会やミーティングに出席すること
・グループ活動や任務に注意を向け続けるよう促すこと
・意思決定のスキルの発達を支援すること
・学習機会を創造すること
・ミーティングの議題の計画を支援すること
・役員が自分の義務を学び遂行するのを支援すること
・反対意見の扱い方を教えること
・ミーティングへの送迎を提供したり援助すること
・役員が新しいメンバーにセルフ・アドボカシーやグループ運営について教えるのを支援すること
・メンバーをコミュニティにつないでいくよう支援すること
・新しいメンバーの募集を助けること
・投票のしかたについての学習を援助すること
・役員がミーティングの日程を決めるのを援助すること
・議事運営の秩序ある手順やルールを教えること
・助成金獲得のための活動を支援すること
・自立に対する親の態度への対応を援助すること
・サービスや支援の質を評価する方法を教えること
・新しいグループの立ち上げを援助すること
・グループのニュースレターを編集すること
 こういった支援活動の列挙は、セルフ・アドボカシーの支援者像を明確にするのに役立つ。今回の調査では、こういった支援活動の内容を抽象化した概念を用いた。支援行為を支える支援の理念を明確にすることがめざされたためである。その結果、支援者の行為そのものと本人の主体性との関係については言及できなかった。支援の理念と行為との関係を追究することが課題となる。

V 支援の問題から見たセルフ・アドボカシーの課題
1 協働的関係の具体的ビジョン
 本論は、セルフ・アドボカシーにおける法的理念と実践的意義との矛盾を把握し、その止揚の契機をセルフ・アドボカシーの支援に見出そうとするところから始まった。したがって、この研究でセルフ・アドボカシーのプロセスを、本人が主体的であるような支援者との関係形成の視点から捉えたのである。本人と支援者との関係性に焦点化した今回の調査結果を分析することによって、セルフ・アドボカシーの支援について、いくつかの成果を得ることができた。
 しかし、今回の調査は、実態調査という性格上、現実的あるいは短期的な視野に限定されていた。本人が主体的であるということに照準を合わせ、そこに至るプロアセスを考察したにすぎない。本人が主体的であることが達成された先のビジョンについて、新しい知見を得ることはできなかった。セルフ・アドボカシーの支援に関わって、いくつかの先行研究が拘ってきたのは、実はこの点であることを前章で述べた。本人と支援者との協働あるいはパートナーシップの具体的な中味がどのようなものかという考察が、今回の調査の次になされなければならない課題である。
 予め述べておくと、協働のビジョンを具体的に構想してしまうことにも、一定の危険が伴う。それをしてしまうことによって、本人の実践をビジョンの中に取り込んで無力化してしまう可能性があるからである。協働の具体性は、相互に主体的な関係が定まったときに、はじめて現れると考えるべきである。
 しかしそれでも、協働の具体性を予め吟味しておくことは必要であるとも言える。それは次のような理由による。
 今回の調査で、本人と支援者との関係性が変容するというビジョンを持つことができた。関係性変容には、支援者の意識変容が内包される。特に「否定的障害者観」の克服と関係性変容とは表裏の関係にあると考えられる。したがって本人との関係に変化が生じた支援者は、既に社会に広く流通している一般的な価値観とは一線を画した見地に立っていると考えることができる。しかも、その支援者が一般的な価値観に問題を感じるようになったのだとすると、その一般的価値観を変容させていくというプロジェクトに向けて、本人との協働が必然的に帰結されるはずである。
 このプロジェクトが、本人と支援者との協働での実践であるというのは、このプロジェクトが本人の利益を求めるだけのものではないということを意味する。支援者もまた、自らの問題や関心に基づいた実践に取り組んでいるということなのである(Hayden, 1998)。
 協働の具体性は、協働的関係が形成されたときにはじめて現れる。しかし、そのビジョンは、実際の照準や適切な支援のあり方を構想する際に、不可欠だとも言える。 このような視点に立ったとき、支援者がグループの外部に対して何をなしえるかが、重要な論点となる。今回の調査では、そのような視点が乏しかった。最後に、協働的な関係に近いと思われるセルフ・アドボカシーの事例をひとつ紹介しておこう。

2 協働的関係の事例〜Remembering with Dignityの試み〜
 米国ミネソタ州セントポール市に、Advocating Change Together(以下、ACT)というセルフ・アドボカシー・グループがある。このグループは1979年に結成された。ACTの目標として、次の4点が掲げられている。@障害のある人々の生活を向上させる法律の増加、A障害のある人々が自分の生活においてパワーとコントロールをもてるようにする訓練の展開、B地区、州、連邦のセルフ・アドボカシーを援助することによる、全てのレベルのセルフ・アドボカシー運動の強化、C目標達成に必要な人的資源となるリーダーシップの拡大。また、女性、多様な人種、民族、性的指向性のある人々へのアウトリーチを広げることも、優先的な取り組みの一つである。年次総会で委員会メンバーが選挙され、その委員会において役員が選出される。委員12名中11名が発達障害のあるメンバーから選ばれ、組織の方針を決定したりプログラムを実行する。毎週定例ミーティングが開かれ、隔週で社会変革のための組織化に向けたミーティングCitizens in ACTionと、職場の変革を目的にしたミーティングWorkers in ACTionが開かれる。また、月例で委員会と、政治問題に関するミーティングももたれる他、月に数度は学校、グループホーム、作業所へのアウトリーチも行われる6)。
 このグループが、1994年、入所施設にある知的障害のある人々の墓地を問題にして、Remembering with Dignity(以下、RWD)というプロジェクトを開始した。州内にある入所施設の小さな墓石には、死者を偲ばせる情報は一切刻まれておらず、ただ死者には関係のない墓石番号のみが刻まれていた。RWDはこのことを問題にしたのである。
 RWDに関する新聞記事(Saint Paul Legal Ledger, April 24, 2000)には、設立の契機となったできごとが次のように紹介されている。“この事業のコミュニティ・オーガナイザーであるジム・ファセットカーマンは次のように述べている。実はRWDは、ロッチェスターの公園(と勘違いした場所)を散歩しているときから始まったのだ。ある日、何人かの仲間がぶらぶら外を歩いていたら、たくさんの石のかたまりに躓いた。それらの石はとても興味深いもので、調査してみようということになった。そしてついに、「公園」が、社会によって隔離されるべき精神薄弱だとか狂気だとか奇形だとか逸脱だとか病気だとかいうようにみなされた人々の墓地であることが分かったのだ。「これは文化の恥部だと私は思う。障害のある人々への恐怖心なのだ」とファセットカーマンは言う。この恥と偏見が、生に対してばかりでなく、死に対しても行われた。彼らの生は、墓石にきちんとした銘を刻むだけの費用にも値しなかったということなのだ。”
 その後、このプロジェクトにACTを含めて11の団体が加わる。その内訳は、ACTの他に、親の会2団体、ミネソタ重度障害者連盟、障害のある学生の文化センター、障害者法律センター、ミネソタ精神障害者連合、それとピープルファースト3団体である(RWDミーティング議事録、2001年9月18日)。
 RWDは、1997年に立法府を相手取り、墓地の整備と墓石への刻銘のための資金を要求し、$200,000を獲得した。この資金をもとに1200の墓石を改修すると、州に対して公式の謝罪を要求するという運動が加わった。しかし、議会や議員による謝罪は、資金提供を引き出すよりも困難が大きかった。新聞は次のように書いている。
“それは、謝罪が罪を犯したことを認めることを意味するからである。法の世界で、謝罪は金銭の問題でもある。それも、大きな金額のである。Advocating Change Togetherのコーディネイターであるリック・カーデナスは、自分たちが求めているものに経済的な意味はないと述べている。それは、象徴的な意思表示であって、金銭の絡む示談のための布石ではないのだと言う。”(Saint Paul Legal Ledger, April 24, 2000)
 現在RWDは、引き続き財団等から資金援助を受けて墓石への刻銘を行う傍ら、これまで取り組んでこなかった州内の諸地域の開拓とネットワーク化を進めている。
 ACTは、知的障害のある本人によって構成され、彼らを知的障害のない人々が支援している。参加している本人の中には、セルフ・アドボカシーの全米組織のメンバーなどの活動家も含まれており、彼らは知的障害のある人々に対する処遇や差別に関して一貫した主張をもっている。また、支援者advisorの中には、有給スタッフとして雇用されているコミュニティ・オーガナイザーや、大学の研究者がいる。特に、雇われているコミュニティ・オーガナイザーは、消費者運動や労働運動、障害者運動などで実績のある活動家である。本人も支援者(被雇用者も含めて)も、ACTのもつ理念や事業に共鳴して、自発的に参加する市民である。
 RWDの事業において、知的障害のある本人の主体性は、支援者との協働的な関係において確保されているということができよう。すなわち、RWDのような戦略性をもった社会変革を目的とした事業の場合、本人が事業の使命や目的に関する語り手であり、支援者がそれらを実現するために事業計画を打ち出すという分業が成立するのである。

【注・引用文献】
1) セルフ・アドボカシーに関する本人による言説の出版(ウィリアムズ・シュルツ、1999;全日本手をつなぐ育成会、1997a;同、1998;Ward et al., 1996)、セルフ・アドボカシーを対象とした調査への本人の関与(上原他、1995)など、いくつかの試みがある。
2) 障害の重さとセルフ・アドボカシーを結びつけることの危険を、Goodleyは次のように説明する。“もし、私達が障害を重度で回復不可能だと信じ込んでしまうなら、その時、知的障害のある人の自己決定はこれらの(自己決定はできないという)解釈に行きついてしまう可能性がある。当然、そういう勝手な解釈は一個人の成長を妨げることになるのだ。支援者の障害に対する理解が機能障害の理解に限られているなら、障害のある人の自己決定はいつも、既に認識されている病理に対する闘争として続いていくだろう。”(Goodley, p.370)
3) この章で分析を試みる「本人活動に関する実態調査」の支援者による自由回答に、次のような記述がめだった。“本人の会のあり方は、メンバーの希望によって変わるので、こうあるべきということはない。”一見、回答者が価値から自由であるような印象を受けるが、「支援者は支援者によって構築された価値に拘束されるべきではない」という価値を内在している。すなわちこの発言が、本人が実践の意味を構築することや、意味構築のプロセスに実践の価値を置いていることを示していることに留意すべきである。
4) この点について、施設職員には従来の誘導や介入による支援への疑問が出発点にあり、それとは異なる支援のあり方としてセルフ・アドボカシーの支援に託したのだいう解釈がある(山川、1996)。今回の調査で施設職員が適切な認識をする傾向にあるのも、この「ゆらぎ」や「迷い」に基づくよりよい支援の追究があってのことと考えることができる。
5) 同様の視点から、全日本手をつなぐ育成会が、1996年から2000年まで「本人活動支援者セミナー」を、2001年には「本人活動支援ワークショップ」を開催し、セルフ・アドボカシー支援のあり方に関する参加型学習の機会を提供してきている。
6) 2001年10月に筆者が訪問した際に得た情報に基づく。

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